第11代垂仁天皇– category –
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日本書紀|第十一代 垂仁天皇①|纏向の珠城宮
活目入彥五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) 第十一代 垂仁(すいにん)天皇 【】 活目入彥五十狭茅天皇(垂仁天皇)は、御間城入彥五十瓊殖天皇(崇神天皇)の第三子で、母は御間城姫(みまきひめ)とおっしゃり、大彥命(おほびこのみ... -
日本書紀|第十一代 垂仁天皇②|都怒我阿羅斯等と比売語曽神
【任那と新羅】 この年に、任那人の蘇那曷叱知(そなかしち)が、 「国に帰りたい」 と申し出ました。(思うに、先代天皇の御代に来朝してから、一度も帰還してなかったのでしょう。) そこで、蘇那曷叱智に厚く恩賞を与え、さらには赤絹一百匹を持たせて... -
日本書紀|第十一代 垂仁天皇③|天日槍の来朝
【天日槍(あめのひぼこ)の来朝】 垂仁3年(前27) 春 三月 新羅の王子の天日槍(あめのひほこ)が、帰属を願って来朝しました。持ってきたものは、 羽太玉(はふとのたま)一箇 足高玉(あしたかのたま)一箇 鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)... -
日本書紀|第十一代 垂仁天皇④|狭穂彦王の反乱
【狭穂彦王の企て】 垂仁4年(前26) 九月二十三日 皇后(狭穂姫)の同母兄の狹穂彦王(さほひこのみこ)は、謀反を起こして国家を覆そうと思いました。 そこで、皇后が家で寛いでいる時をうかがって、 「おまえは、兄と夫とどちらを愛しているのか?... -
日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑤|相撲の発祥・丹波の姫たち
【野見宿禰】 垂仁7年(前23) 七月七日 近習の人が、 「當麻邑(たぎまのむら)にという勇猛な者がおり、名を當摩蹶速(たぎまのくゑはや)といいます。その人は、力が強く、固い角を砕いたり、鉤を真っすぐに伸ばしたりできるのです。 人前でも公然... -
日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑥|誉津別命と白鳥・伊勢の宮
【誉津別命と白鳥】 垂仁23年(前7) 九月二日 天皇は群卿に、 「誉津別命(ほむつわけのみこと)は、既に三十歳になり、髭もたいそう伸びたのに、赤子のように泣いてばかりで、言葉を話さないのは何故か。その原因を役人で協議せよ。」 とおっしゃい... -
日本書紀|第十一第 垂仁天皇⑦|倭大神の祭祀・出雲の神宝
【倭大神の祭祀】 ある話では、、、 天皇は倭姬命を御杖として、天照大神に差し上げました。これにより、倭姬命は天照大神を磯城の神聖な橿の木の本にお祭り申し上げました。 その後、神の教えに従って、垂仁26年十月の甲子の日を選んで、伊勢国の渡遇宮... -
日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑧|殉死の禁止・皇太子の決め方
【殉死の禁止】 垂仁28年(前2年) 冬 十月五日 天皇の同母弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が薨去されました。 冬 十一月二日 倭彥命を身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)に埋葬しました。このとき、近習の者を集めて、全員を陵の周囲に生き埋め... -
日本書紀|第十一第 垂仁天皇⑨|埴輪の誕生・山背の姫・池の造営
【埴輪の誕生】 垂仁32年 (後3) 七月六日 皇后の日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)ある話では、日葉酢根命(ひはすねのみこと)と云うが薨去されました。 埋葬するまでに何日もかかったのですが、、、それは、、、 埋葬に際して、天皇は群卿に、 「... -
日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑩|石上神宮の神宝
【五十瓊敷入彦命の剣一千口】 垂仁39年(後10) ・十月 五十瓊敷命(いにしきのみこと)は、茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)に居ら、剣一千口(つるぎ ち ふり)を作りました。 よって、その剣を川上部(かはかみべ)といいます。...
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