序文③|元明天皇ー古事記の成立ー

2019年8月17日

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元明天皇の治世

現代語

ここに、謹んで申し上げます。今上天皇陛下は即位されまして、その徳は国中の隅々までいきわたり、天地人のすべてに通じておられ、それにより民を正しく育てられました。

その徳は、宮殿にいながらにして、馬の蹄の音が届く最果ての地にまで及び、また舳先が辿り着く最果ての地をも照らすほど、陸にも海にも隅々までいきわたっております。

そのため、日が浮かんで光が重なったり、雲が散って晴れ渡ったり、別々の木の枝が一つになったり、一つの茎から二本の稲穂ができるという目出度い知らせは、その記録に暇もないほどです。

烽を幾たびも必要とする遠い国から、あるいは、幾人もの通訳を必要とする遠い国からの贈り物で倉が空になる月はありません。

夏の禹王よりも誉れ高く、徳は殷の湯王にも優っていると言えましょう。

原文

伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育、御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、日浮重暉、雲散非烟、連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。

簡単な解説

43代元明天皇は天智天皇の娘で、40代天武天皇の御子「草壁王」の王妃でした。

天武天皇が崩御され、その皇后が41代持統天皇として即位。その後、草壁王との御子が42代文武天皇として即位したが25歳で崩御されたため、中継ぎとして43代天皇の即位した女帝です。

即位後は、和同開珎の鋳造、大宝律令の整備、平城京への遷都、古事記編纂、風土記の編纂など、精力的に活動した天皇です。

古事記編纂の詔(みことのり)

現代語

ここに元明天皇は、本記や先紀の誤りを正そうとされまして、和銅四年九月十八日に、わたくし安萬呂に「天武天皇が命じて、稗田阿礼が諳んじた、本記を編纂して献上せよ。」と仰せになられました。

よって、謹んで詔に従い、詳細に記録致しました次第です。

しかし、上古のものは言葉も内容も素朴で、文章にして漢字に表すのは、たいへんむずかしいものがありました。

漢字の訓だけで表現しようとすると、漢字が思いつかず、そうかと言って、漢字の音で表現しようとすると、たいへん長い文になってしまいます。

そこで、文中に音読み訓読みを交えて使い、ときには一つの事象を記すのに訓読みだけで書くこともしました。

言葉や意味の分かりにくいものは、注釈もつけました。わかりやすいものには注釈はつけていません。

また、姓の「日下」とかいて「クサカ」と読む、あるいは、「帯」と書いて「タラシ」と読むというような類は、改めずにもとのままにしてあります。

この書ではおおむね、天地開闢(天地の始まり)から推古天皇までを書き表しております。

そこで、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズの命)までを上巻とし、神武天皇から応神天皇までを中巻、仁徳天皇から推古天皇までを下巻としまして、合わせて三巻を記しました。ここに謹んで奉ります。わたくし安萬侶、畏み謹んで申し上げます。

和銅五年 正月二十八日 正五位上の勲五等 太の朝臣安萬侶

原文

於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。

大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

簡単な解説

元明天皇が、天武天皇の遺志をついで、正しい帝紀を編纂する意義というのは、まさに天武天皇のお考えと同じなのでしょう。皇統の神性を謳いあげて、統治権を掌握するという。

そこに、右大臣「藤原不比等」の思惑も。。。

それは置いておくとして、

30年前に天武天皇から各地の伝承を調査して正統を諳んじるよう命を受けた稗田阿礼さんは、それから30年もの間、ずっと諳んじていたんでしょうね。

25歳の秀才も、はや55歳。どんな思いで若い安萬侶さんと対峙したのでしょうね。

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序文

Posted by リョウ