19代允恭天皇②|皇太子と妹の、禁断の恋、、、

2019年11月13日

スポンサーリンク

木梨之輕太子と輕大郎女との恋

現代語

天皇が崩御された後、木梨之輕太子(きなしのかるのひつぎのみこ)は、皇位にお就きになられると決められていましたが、まだ即位される前に、伊呂妹(いろも、同母の妹)の輕大郎女に禁断の恋をして詠んだ歌、

山田を作って、
その山が高いので、地の下に樋を通わせ
そのように心の中で逢いに行く妻、
心の中で泣いている私の妻を、
今宵こそは我が手に入れたのだ

これを志良宜歌(しらげうた)といいます。また歌って、

笹の葉に霰が音を立てるように
そのようにしっかりと寝たならば、
もしも私から人が離れていこうとも気にしない

愛しい人と寝たならば、
刈り取った薦草のように乱れてもいい
共寝さえできればどうにでもなれ

これは夷振之上歌(ひなぶりのあげうた)といいます。

この為、多くの役人や天下の人々が輕の太子から離れていき、穴穗の御子の人気が高まりました。

輕の太子は恐れて、大前小前宿禰大臣(おほまへをまえのすくねのおほおみ)の家に逃げ込み、武器を作って備えました。

その時に作った矢は、鏃が銅でした。これを輕箭(かるや)といいます。

穴穗御子も武器を作りました。この王子が作った矢は今風(奈良時代と同じような)の矢でした。穴穗箭(あなほや)といいます。

穴穗の御子は軍を起こして、大前小前宿禰の家を包囲しました。その時に大氷雨(おほひさめ)が降っていたので、詠まれた歌は、

大前小前宿禰の門の庇に、
立ち寄りなさい
雨をやませて行きましょう

すると、大前小前宿禰が、手を挙げ膝を打って舞い奏でて歌った歌は、

宮人の足に付けた小鈴が、
落ちてしまったと、宮中の人が騒いでいるが、
里人よ、そんなに騒がなくてもいいよ

この歌は宮人振(みやひとぶり)である。

大前小前宿禰が、このように歌いながらやってきて、

「我が御子さま、お兄様に兵を差し向けてはいけません。兵を向けると人が笑うでしょう。私が捕らえて参りましょう。」

と申し上げたので、穴穗御子は兵を引き上げました。

このようなやりとりがあって、大前小前宿禰は輕の太子を捕らえて穴穂の王子に引き渡しました。

輕の太子が捕らえられた時に詠んだ歌

空飛ぶ雁、軽の乙女よ。
あんまり泣くと、人に知られてしまいます
私は、はさの山の鳩のように、
心の中で忍び泣きしています

また、歌って言う

空飛ぶ雁、軽の乙女よ。
しっかりと共寝で明かしましょう。
軽乙女よ

その後、輕太子を伊余の国の湯泉への流罪としました。その旅立つ時に詠んだ歌は、

大空を飛ぶ鳥も私の使いです。
鶴の声が聞こえたならば、
私のことを、尋ねてくださいね

この三つの歌は天田振(あまたぶり)でといいます。また、歌われた歌は、

私を島に流したならば、
必ず帰ってくるから、
我の座席は清く護っていて欲しい
言葉では座席と言ってはいるが、
我が妻を清く護っていてくれということだ

この歌は夷振之片下(ひなぶりのかたおとし)といいます。

衣通王(そとほりのみこ、輕大郎女の亦の名)が返された歌は、

あひねの浜の
牡蠣の貝殻を踏まないように
夜が明けてから行ってください

その後、恋しさに耐えかねて、後を追われて詠まれた歌は、

あなた様がお出掛けになられてから、多くの日が過ぎました。
ニワトコの木のように、お迎えに行きますよ。
もう、待つことはしません

衣通王が追いついた時に、輕太子はお待ちになられていて詠まれた歌は、

霊国の泊瀬の山の
高い峰に幡を立て、
低い峰にも幡旗を立て、
あなたの思い定めてるとおり
私の愛しい妻こそは、ああ。
槻弓のように寝ているときも、
梓弓のように起きているときも
一緒にいよう、我妻よ

また歌って

霊国の泊瀬の川の
上の瀬には清らかな柱を立て
下の瀬にはりつぱな柱を立て、
清らかな柱には鏡を懸け
りつぱな柱には玉を懸け、
玉のようにわたしの思つている女、
鏡のようにわたしの思つている妻、
その人がいると言うのなら
家にも行きましよう、故郷をも慕いましよう。

このように歌ったあと、二人は一緒に自害されました。この二歌は讀歌(よみうた)といいます。

原文

天皇崩之後、定木梨之輕太子所知日繼、未卽位之間、姧其伊呂妹・輕大郎女而歌曰、

阿志比紀能 夜麻陀袁豆久理 夜麻陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾 和賀登布伊毛袁 斯多那岐爾 和賀那久都麻袁 許存許曾婆 夜須久波陀布禮

此者志良宜歌也。又歌曰、

佐佐波爾 宇都夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆

此者夷振之上歌也。

是以、百官及天下人等、背輕太子而、歸穴穗御子。爾輕太子畏而、逃入大前小前宿禰大臣之家而、備作兵器。爾時所作矢者、銅其箭之內。故號其矢謂輕箭也。穴穗御子亦作兵器。此王子所作之矢者、卽今時之矢者也。是謂穴穗箭也。於是、穴穗御子、興軍圍大前小前宿禰之家。爾到其門時、零大氷雨、故歌曰、

意富麻幣 袁麻幣須久泥賀 加那斗加宜 加久余理許泥 阿米多知夜米牟

爾其大前小前宿禰、擧手打膝、儛訶那傳自訶下三字以音、歌參來。其歌曰、

美夜比登能 阿由比能古須受 淤知爾岐登 美夜比登登余牟 佐斗毘登母由米

此歌者、宮人振也。如此歌參歸白之「我天皇之御子、於伊呂兄王、無及兵。若及兵者、必人咲。僕捕以貢進。」爾解兵退坐。故大前小前宿禰、捕其輕太子、率參出以貢進。其太子被捕歌曰、

阿麻陀牟 加流乃袁登賣 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久

又歌曰、

阿麻陀牟 加流袁登賣 志多多爾母 余理泥弖登富禮 加流袁登賣杼母

故其輕太子者、流於伊余湯也。亦將流之時、歌曰、

阿麻登夫 登理母都加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐泥

此三歌者、天田振也。又歌曰、

意富岐美袁 斯麻爾波夫良婆 布那阿麻理 伊賀幣理許牟叙 和賀多多彌由米 許登袁許曾 多多美登伊波米 和賀都麻波由米

此歌者、夷振之片下也。其衣通王獻歌、其歌曰、

那都久佐能 阿比泥能波麻能 加岐加比爾 阿斯布麻須那 阿加斯弖杼富禮

故後亦不堪戀慕而、追往時、歌曰、

岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士

此云山多豆者、是今造木者也。

故追到之時、待懷而歌曰、

許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 波多波理陀弖 佐袁袁爾波 波多波理陀弖 意富袁爾斯 那加佐陀賣流 淤母比豆麻阿波禮 都久由美能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆麻阿波禮

又歌曰、

許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知 斯毛都勢爾 麻久比袁宇知 伊久比爾波 加賀美袁加氣 麻久比爾波 麻多麻袁加氣 麻多麻那須 阿賀母布伊毛 加賀美那須 阿賀母布都麻 阿理登伊波婆許曾爾 伊幣爾母由加米 久爾袁母斯怒波米

如此歌、卽共自死。故、此二歌者、讀歌也。

簡単な解説

古代の皇室において、異母兄妹の結婚は許されていたようですが、さすがに同母の兄妹の結婚は許されていなたっかようです。

伊邪那岐命と伊邪那美命も兄妹ですが、神だからよいのでしょう。

輕大郎女は、亦の名を衣通郎女」と言われるほど、輝くように美しかったということですから。「美しさは罪」ということになりましょうか。。。

伊予の国の温泉

現在の道後温泉だと言われています。ここまでたどり着いたのかどうか。私は、たぶん辿り着いていないと思います。

できれば、道後温泉に二人で入って欲しかった。あの温泉に入ったならば、自害などしなかったのではないかと思うのです。

泊瀬の山、泊瀬の川

泊瀬の山に沢山の旗を立てると詠われています。この泊瀬とは現在の奈良県桜井市の初瀬のこと。初瀬山は、三輪山の裏の裏。そこに流れる大和川が泊瀬の川でしょう。長谷寺あたりですね。

軽太子は伊予に向かっているはず。三輪山の裏手とは、おかしいですね。

これは、回想シーンあるいは妄想シーンと考えられます。

泊瀬の谷で穴穂王子との決戦に挑む自分の姿と、それに寄り添う妻の姿を思い浮かべて詠った歌なのでしょう。

そしてこれを伊予国もしくは道中で詠ったということは、やはり大和に帰りたかったのだろうと慮る次第です。

スポンサーリンク