古事記|4代懿徳天皇
4代懿徳天皇(いとく)
現代語
大倭日子鉏友命(オホヤマトヒコスキトモの命)は、軽の境岡宮(かるのさかひをかのみや)に都を定めて、天下を治められました。
懿徳天皇が、師木縣主(しきのあがたぬし)の祖の賦登麻和訶比賣命(フトマカヒメの命)、亦の名は飯日比賣命(イイヒヒメの命)を娶って生まれた御子は、
- 御眞津日子訶惠志泥命(ミツマツヒコカエシネの命)
- 多藝志比古命(タギシヒコの命)の二人です。
そして、長男の御眞津日子訶惠志泥命が次の天下を治められました。
次男の當藝志比古命は、
- 血沼之別(ちぬのわけ)
- 多遲麻之竹別(たぢまのたけのわけ)
- 葦井之稻置(あしゐのいなき)
の祖です。
懿徳天皇は45歳でお亡くなりになり、御陵は畝火山の眞名子谷(まなこたに)の上にあります。
原文
倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命自訶下四字以音、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也
簡単な解説
軽の境岡宮(かるのかひをかのみや)
畝傍山から南へ2kmほど。岡寺駅の近くに、宮跡があります。
畝火山の眞名子谷(まなこたに)
畝傍山南纖沙溪上陵といいます。なんと読むかといいますと、「うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ」です。
こちらも、橿原神宮から見ると、畝傍山の反対側になりますね。
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