古事記|神功皇后②|応神天皇が誕生し、反乱が起こる
御子の誕生
現代語
新羅平定の途中のことです。
皇后は、いよいよ臨月を迎えました。しかし、今ここで出産するわけにはいきません。そこで石を取ってきて裳の腰の所に付け、出産を遅らせることにしました。
新羅平定が終わって筑紫国に凱旋した時、無事に御子が生まれました。その御子が生まれた土地を宇美(うみ)といいます。
衣服に付けた石は筑紫国の伊斗村(いとのむら)にあります。
さて、筑紫の末羅縣(まつらのあがた)の玉嶋里(たましまのさと)に出掛けて、河原で食事をしたときのこと。
ちょうど四月の上旬でしたので、川の岩場に立って、衣の糸にご飯粒を餌としてくっつけて、年魚(あゆ)を釣りをしました。その川の名を小河(おがわ)といいます。そして、その岩場の名を勝門比賣(かちとひめ)といいます。
このことから、四月上旬になると、女性が衣の糸とご飯粒で鮎を釣る行事が、今もなお続いているのです。
原文
故其政未竟之間、其懷妊臨產。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫国、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫国之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
簡単な解説
宇美
福岡県粕屋郡宇美町に鎮座する「宇美八幡宮」が、神功皇后が出産なさった場所と伝わっています。
境内には、皇后が出産のときにしがみついたという「槐(えんじゅ)の木」、産湯に使ったという「産湯の水」(うぶゆのみず)、産衣を掛けたという樹齢2000年の大楠などが残されています。
伊斗村(いとのむら)
福岡県糸島市二丈深江に、鎮懐石八幡宮(ちんかいせき)があります。ここが、神功皇后がお腹に当てていた石(子産石・鎮懐石)を納めた場所とのことです。
玉嶋里(たましまのさと)
佐賀県唐津市浜玉町に万葉垂綸石公園があります。ここに、亀石のような形をした「垂綸石」と呼ばれる巨石があり、神功皇后が釣りをしたときに乗ったとされる石だそうです。
勝門比賣(かちとひめ)
これは、難しくてわかりません。
香坂王と忍熊王の反乱
現代語
息長帶日賣命が、九州から大和に帰るとき、なにやら反乱の気配を感じました。
そこで、、、
まずは、御子はすでに亡くなっているという噂を流しておいて、そして喪船を一艘仕立て、御子をその喪船に乗せました。
香坂王(かごさかの王)と忍熊王(おしくまの王)は、この噂を聞いて、待ち伏せて捕らえようとして、斗賀野(とがの)まで出てきて、宇氣比獦(うけひがり:誓約狩り)をしました。
その結果は、香坂王が歷木(くぬぎ)に登っていると、大きな暴れ猪が出てきて、歷木を根元から掘り倒して、香坂王を噛み殺しまてしまいました。
誓約狩りは悪い結果が出たということです。
しかし、弟の忍熊王は、誓約狩りの結果が凶であったにもかかわらず、軍を仕立てて皇后を待ち受けました。
そこに偽装の喪船が到着。忍熊王は、その喪船を攻めようとしました。
すると、その船から皇太子軍の兵士が、続々と降りてくるではありませんか。
戦が始まりました。
忍熊王は、難波吉師部の祖の伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将軍とし、皇太子の方は丸邇臣の祖の難波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまの命)を将軍として、戦いました。
皇太子軍は、一旦は忍熊王軍を山代(やましろ)まで追い詰めましたが、そこで反撃され一進一退の攻防戦となり、やがて膠着状態となります。
そこで、皇太子方将軍の建振熊命は、策略を考えました。
「既に、息長帶日賣命はお亡くなりになられた。もやは戦う必要は無くなった。」
と言って、弓の絃を切って、降伏したかのように見せ掛けました。
忍熊王側の将軍は、まんまとだまされて、弓の弦を外して兵を引いていきました。
これを見た皇太子軍は、髻(もとどり)に隠しておいた弓弦を取り出して弓を張り直し、一斉に攻撃しました。
これにより忍熊王軍は逢坂まで退却して、再度戦になったものの、さらに沙沙那美(ささなみ)まで敗退し、悉く斬り伏せられ全滅しました。
忍熊王と伊佐比宿禰(いさひのすくね)は追い詰められ、船で琵琶湖に出て詠んだ歌は、
いざ我が君、振熊の痛手を受けないで、
鳰鳥(にほどり)浮かぶ、近江の海に
鳰鳥(にほどり)のように、潜っちゃおう
二人は、湖に身を投げて共に亡くなりました。
原文
於是、息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之「御子既崩。」如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而、思将待取、進出於斗賀野、爲宇氣比獦也。爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、堀其歷木、卽咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船将攻空船。爾自其喪船下軍相戰。
此時忍熊王、以難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲将軍、太子御方者、以丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲将軍。故追退到山代之時、還立、各不退相戰。爾建振熊命、權而令云「息長帶日賣命者既崩。故、無可更戰。」卽絶弓絃、欺陽歸服。於是、其将軍既信詐、弭弓藏兵。爾自頂髮中、採出設弦一名云宇佐由豆留、更張追擊。故、逃退逢坂、對立亦戰。爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。於是、其忍熊王與伊佐比宿禰、共被追迫、乘船浮海歌曰、
伊奢阿藝 布流玖麻賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能 阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和
卽入海共死也。
簡単な解説
香坂王と忍熊王
仲哀天皇と、倭建命と弟橘比売命の流れを継ぐ大中比売命との間に生まれたの皇子です。応神天皇が生まれ、世継ぎの座を奪われた兄弟が反乱を起こすのです。
斗賀野(とがの)
大阪市北区の兎我野町あたりか、神戸市灘区都賀川の流域が候補地です。
沙沙那美(ささなみ)
特定の伝承地は無いようです。琵琶湖の南部のあたりでしょう。
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