橿原宮の造営
現代語
ナガスネヒコ討伐を果たした神倭伊波禮毘古命のもとに、邇藝速日命(ニギハヤヒの命)がやってきて、

と申し上げ、天津瑞(あまつしるし)を天神御子に見せて、仕えることとなりました。
邇藝速日命がナガスネヒコの妹の登美夜毘賣(トミヤビメ)を娶って産んだ子が宇摩志麻遲命(ウマシマヂの命)で、
- 物部連(もののべのむらじ)
- 穗積臣(ほづみのおみ)
- 釆女臣(うねめのおみ)
らの祖神となります。
ここに、荒ぶる神どもを平定し、従わない人々を追い払って、畝火(うねび)の橿原宮(かしはらのみや)を都として天下を治められました。
さて、神倭伊波禮毘古命が日向におられた時に、阿多之小椅君(アタノヲハシノキミ)の妹の阿比良比賣(アヒラヒメ)を娶られてお生みになられた子は、
- 多藝志美美命(タギシミミのみこと)
- 岐須美美命(キスミミのみこと)
の二人です。
原文
故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。
故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣自阿以下五字以音生子、多藝志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。
簡単な解説
邇藝速日命(ニギハヤヒの命)
饒速日尊とも書きます。古事記・日本書紀とも、この神についての記述が極端に希薄です。
一方、先代旧事本紀には、詳しく記載されています。
天照国照彦火明櫛玉饒速日尊という神名で登場し、神武以前に天磐船で河内に降臨し、大和でいち早く日本建国を果たした大王とされています。
そして、神武が大和入りした時は既に亡くなっており、後継者の宇摩志麻遲命に代替わりしていたと記述されています。
先代旧事本紀は物部氏に縁の深い人の編纂と言われています。一方、記紀は現皇統の正統を主張するための史書です。
だから、食い違いが発生するのでしょう。だって、饒速日尊の建国が先だったとしたら、饒速日尊の後裔に引き継がれていくはずの、天照大御神からの皇統を奪い取ったことになりますよね。
こんな中途半端な登場ならばいっそのこと、登場させなかったらよかったのに、なんて思ったりしますが、全く無視するわけにもいかなかったのでしょうね。
そういえば、古事記編纂を指示した天武天皇も、天智天皇の御子から皇統を奪い取ったのでした。。。
畝火(うねび)
現在は、畝傍山と書き、大和三山の一つとして数えられる聖なる山です。
もともとは瀬戸内火山帯に属する火山だったらしく、山頂付近の地質はまさに火山由来の岩石で形成されています。
瀬戸内火山帯って、学校で習ったかしら?記憶にないのですが、現在は休眠中の火山帯で、中央構造線沿いに走る火山帯とのこと。
橿原宮(かしはらのみや)
現在の橿原神宮は、橿原宮があったと推定される場所に創建されたとのことです。
多藝志美美命(タギシミミのみこと)
神武の九州時代の御子。このあと、神武天皇の跡目争いに参加してきよりますので、覚えておいてくださいませ。
大物主神の娘
現代語
さて、神倭伊波禮毘古命は見事に東征を果たし、橿原宮で倭国を建国しました。
というわけで、次にすることと言えば、美人な皇后探しです。普通の美人ではいけません。天神御子の后ですから、名だたる神の子でなければいけないのです。
そんな折り、大久米命が申し上げました。

と、話を続けます。

「三島湟咋(ミシマノミゾクヒ)の娘で、名を勢夜陀多良比賣(セヤダタラヒメ)という、大変な美人がおりましたそうな。
その比売を、かの三輪の大物主神(オホモノヌシの神)が見初めましてね。
その比売が用を足そうとしたとき、丹塗矢(にぬりや)に化身して、厠(かわや)の下を流れる溝に流れてきて、比売のホト(女陰)に突き刺ささったそうです。
すると、比売はびっくり仰天。思わず立ち上がり、走りまわって、きゃっきゃ、きゃっきゃとイススキました。(きゃっきゃ、きゃっきゃと大騒ぎです。)
そしてその夜、その丹塗矢を寝床のそばに置いて床に就くと、たちまち丹塗矢は立派な男になり、その比売と交わって娘が生まれました。その名も富登多多良伊須須岐比賣(ホト タタラ イススキ ヒメ)といいます。
またの名を比賣多多良伊須気余理比賣(ヒメタタライスキヨリヒメ)と言いますが、これはさすがにホト(=女陰)という言葉が名前に使われるのが嫌だったので、後に名を改めたものらしいですよ。」

と申し上げました。
原文
然更求爲大后之美人時、大久米命曰「此間有媛女、是謂神御子。其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。此二字以音。下效此。爾其美人驚而、立走伊須須岐伎此五字以音、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命、亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。是者惡其富登云事、後改名者也。故、是以謂神御子也。」
簡単な解説
富登多多良伊須須岐比賣(ホト タタラ イススキ ヒメ)
名は体を表すじゃないですが、丹塗矢が刺さった時に様子が名前になっちゃってます。
富登(ほと)が女陰を指し、伊須須岐(いすすき)が立ち上がって大騒ぎした様子とするなら、多多良(たたら)は?となりますよね。
一般的には、母親の名の一部を受け継いだとされています。そしてそれはタタラ製鉄のことを指すと言われています。
それに何の文句もないですが、私としてはですよ。うら若き乙女が、変なところに矢が突き刺さったので、びっくりしながらも面白くて、足踏みしながらキャーキャー騒いでいる様子を想像するんです。その様子がタタラを踏むのと同じなのかな?と思ってます。
富登
ここであらためて、ホト(女陰)のことなんですが、、、
我々現代人にとって女陰(女性器)というものは、公然と話題にするのは憚られるのですけれども、古代人にとって女性器というのは、とても神聖なものだったと推察されます。
というのも、古事記には他にも何か所もホトが登場するからです。重要な場面で。
たとえば、伊邪那岐と伊邪那美の初めての交わいの場面でも、女神が「私の体は概ね完成しているのですが、1か所だけ合わさっていない部分があります」というようなことを言ってますし。
土偶を見てもわかります。妊娠して大きくなったお腹、乳房、女陰などが象られています。
女性器は命を生み出す場所ですから、古代人にとって、これ以上大切な場所は無かったはずです。
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