神武①|東征|旅立ちからナガスネヒコとの戦いまで

2019年9月4日

スポンサーリンク

神武の旅立ち

現代語

鵜葺草葺不合命の末っ子の神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイハレビコの命)は、兄の五瀬命(イツセの命)と高千穗の宮で相談されました。

Left Caption
兄さん。どこに行けば天下を治めることができるだろうか。東の方に行ってみようか。

ということになりました。

そこで、高千穂の宮を出発して、筑紫に向かいました。

 

豐國の宇沙(うさ)にお着きになられた時、その土地の宇沙都比古(ウサツヒコ)と宇沙都比賣(ウサツヒメ)の二人が仮の宮を建て、豪勢なもてなしを受けました。

そこを出発し、筑紫の岡田宮(おかだのみや)に到着。ここで一年ほど逗留。

その後、安藝國の多祁理宮(たけりのみや)に七年、吉備の高嶋宮(たかしまのみや)に八年間とどまりました。

 

吉備国を出て、さらに東へ進んだところの流れのはやい海峡で、龜の甲羅に乗って釣りをしながら手招きしてやってくる人と出会いました。

Left Caption
お前は誰じゃ?
Right Caption
私は國神(くにつがみ)でございまする。
Left Caption
お前はこの辺の海に詳しいか?
Right Caption
はい。よく知っておりまする。
Left Caption
私に仕えるか?
Right Caption
お仕え申し上げましょう。

そこで、神倭伊波禮毘古命は竿を差し出し、その船を引き入れ、槁根津日子(サヲネツヒコ)と名づけました。

このサヲネツヒコは倭國造(やまとのくにのみやつこ)等の祖神です。

原文

神倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。

亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。

簡単な解説

宇沙の仮の宮

足一騰宮「柱が一つの宮」だったのだろうということで仮の宮と訳しましたが、仮だったかどうかはわかりません。大分県宇佐市の宇佐神宮、妻垣神社、和尚山の麓の三か所が候補地となっています。

岡田の宮

北九州市八幡西区の岡田宮が候補地です。

多祁理宮

広島県安芸郡の多家神社といわれています。この多家神社は延喜式式内社の名神大社でした。

吉備の高嶋宮

岡山県岡山市南区の高島宮が文部省で公認されている候補地です。他にも7か所の論社があるようですよ。

流れの速い海峡

岡山を出発して東へすすんだ流れの速い海峡といえば、明石海峡でしょうね。

 

ナガスネヒコとの激戦

現代語

さて、浪速の渡(なみはやのわたり)を通って、青雲之白肩津(あおくものしらかたのつ)に停泊されました。

そこには、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)が兵を集めて待ち構えていて、戦となりました。

この時、楯を矢除けに立てながら上陸したので、この地を楯津(たてつ)といいます。今は日下の蓼津(くさかのたでつ)と呼ばれている所です。

この、ナガスネヒコとの戦いで、五瀬命の腕に矢が刺さり、深手を負いました。

Left Caption
私は日神の御子なのに、日に向かって戦ったから良くかったのだ。だから、賤しい賊から痛手を受けたのだ。
今から移動して、日を背にして戦おう。

とおっしゃり、南の方へ迂回して、血沼海(ちぬのうみ)まで来たところで、手の血を洗いました。だから、この海を血沼海というのです。

 

そこから更に廻って、紀國男之水門(きのくにのをのみなと)に着いた時

Left Caption
ワシは、あんな下賤の輩の手傷によって死ぬというのか!

と、ここに勇ましくも、お亡くなりになられました。

そこで、この水門(みなと)を男水門(をのみなと)といいます。山陵(みささぎ)は紀國の竈山(かまやま)にあります。

原文

故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾詔「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。

簡単な解説

浪速の渡(なみはやのわたり)

弥生時代の後期から古墳時代の前期の大阪には平野はなく、上町台地以外は海でした。

現在の上町台地は、瀬戸内海と河内湾を分ける半島になっていて、瀬戸内海から河内湾に入る海峡「浪速の渡」(大阪城の北)は明石海峡と同じように流れが速く波が大きかったといわれています。

そのころの大阪の伝承が、飛鳥・奈良時代にまで残っていたのでしょうね。

青雲之白肩津(あおくものしらかたのつ)

白肩の津は「白い干潟の港」という意味である、とか、白波の立つ港であるとか、いずれにしても特定の地名を指したものではないという説や、いやいや、枚方のことよという説など、結局のところ、はっきりわからなのです。

ただ、日本書紀には「河内国草香邑の白肩の津」とあり、草香邑を今の東大阪市日下とすれば、さすがに枚方ではないだろうと思うのですが、、、

登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)

ナガスネヒコは謎です。いろんな考察がなされていますが、

  • 登美の中洲の男と読んで、大和の桜井あたり(当時は中洲だったらしい)の豪族
  • 鳥見町(奈良市富雄から生駒市にかけて)あたりを支配した豪族
  • 矢田丘陵は長層嶺(ながそね)と呼ばれる地形で、そこを支配していた豪族
  • 長い脛を持った人と読んで、走るのが早かった「縄文人」だという説

などなど、あげれば枚挙にいとまがありません。

個人的には、矢田丘陵の南端に「矢田坐久志玉神社」という「饒速日命の宮跡」に鎮座する「饒速日命」を祀る神社がありますので、矢田丘陵説を推奨したいですぅ。

楯津(たてつ)

現在では盾津という町名はありませんが、東大阪市の中央部に、盾津中学校や盾津公園といった名称として残っています。

血沼海(ちぬのうみ)

血沼は茅渟とも書きますが、大阪南部の大阪湾沿岸を指します。要するに泉州沖といえましょう。

ちなみに、関西ではクロダイのことをチヌといいます。

紀國男之水門

泉南と和歌山の両方に候補地があります。

泉南説では、南海本線の樽井と尾崎の間に流れる川「男里川」の河口としています。男神社の摂社「浜の宮」があります。

和歌山説では、紀ノ川の河口としています。現在そこには水門吹上神社があります。

竈山

五瀬命の墳墓は、紀国一之宮の「伊太祁曽神社」から流れる和田川の畔にあり、竈山神社に接します。もうひとつの一之宮「日前宮」から南へ3km、饒速日尊由来の「藤白神社」から北へ6kmの地点です。

ちなみに、日前宮から藤白神社まで直線を引いてみたら、その線上に竈山墓があります。

和歌山市民の話では、初詣は、この伊太祁曽神社・日前宮・竈山神社の三社を参拝する習わしがあったとらしいです。

スポンサーリンク