26代継体天皇

スポンサーリンク

皇位継承の経緯

現代語

武烈天皇が崩御されてしまったのですが、なかなか日継の王を見出すことができませんでした。

そこで、品太天皇(ほむだのすめらみこと)の五世の孫の袁本杼命(をほどののみこと)を近淡海国(ちかつあふみのくに)からお呼び申し上げ、仁賢天皇の皇女である手白髮命(たしらかのみこと)を娶らせて、天下をお授けしました。

原文

天皇既崩 無可知日續之王 故 品太天皇五世之孫 袁本杼命 自近淡海國 令上坐而 合於手白髮命 授奉天下也

簡単な解説

高御産巣日神・天照大御神以来、血縁で繋いできた皇統がここで途切れてしまうのは残念なことですが、仁賢天皇の皇女を娶り、その御子が世継ぎとなったことで、かろうじて仁徳天皇からの直系を取り戻せたことになりましょう。

天下を授ける

今までの天皇紀では、「天下をお治められました」と表現されていましたが、継体天皇紀だけは「天下を授けた」と表現されています。さらには「娶らせて」とあります。

まるで「本来なら、あんたなんか天皇になれないのよ!」と書かれているみたいです。

確かに、応神天皇の5世孫となると何百人もいるでしょうから、かなり薄い繋がりでしょうが、日本書紀には、この経緯が詳しく記載されていて、かなりの人物であったことが伺えます。

決して傀儡天皇なんかではなく、完全に国を掌握する天皇になっていきます。

近淡海国(ちかつあふみのくに)

近淡海国は都から近い方の淡海の国です。近江国です。滋賀県です。

では、遠い方の淡海の国すなわち遠淡海国はというと、とおつおうみ=とおとうみ=遠江国です。静岡県です。

どちらも、琵琶湖、浜名湖という大きな淡水の海がありますからね。

 

継体天皇の宮・后妃皇子

現代語

品太王:応神天皇の五世孫の袁本杼命は伊波禮之玉穗宮(いはれのたまほのみや)に皇居を造営して、天下を治められました。

天皇が三尾君(みをのきみ)らの祖の若比賣(わかひめ)を娶って生まれた御子は、

  • 大郎子(おほいらつこ)
  • 出雲郎女(いづものいらつめ)

の二柱でした。

尾張連(をはりのむらじ)らの祖の凡連(おほしのむらじ)の妹の目子郎女(めのこのいらつめ)を娶って生まれた御子は、

  • 廣國押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)
  • 建小廣國押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)

の二柱でした。

意祁天皇:仁賢天皇の御子の手白髮命(たしらかのみこと)皇后を娶って生まれた御子は、

  • 天國押波流岐廣庭命(あめくにおしはるきひろにはのみこと)

の一柱でした。

息長眞手王(おきながまてのきみ)の娘の麻組郎女(をくみのいらつめ)を娶って生まれた御子は、

  • 佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)

の一柱でした。

坂田大俣王(さかたのおほまたのみこ)の娘の黑比賣(くろひめ)を娶って生まれた御子は

  • 神前郎女(かむさきのいらつめ)
  • 田郎女(たのいらつめ)
  • 白坂活日子郎女(しらさかのいくひこのいらつめ)
  • 野郎女(ののいらつめ)、亦の名を長目比賣(ながめひめ)

の四柱でした。

三尾君加多夫(みをのきみのかたぶ)の妹の倭比賣(やまとひめ)を娶って生まれた御子は、

  • 大郎女(おほいらつめ)
  • 丸高王(まろこのみこ)
  • 耳王(みみのみこ)
  • 赤比賣郎女(あかひめのいらつめ)

の四柱でした。

阿倍の波延比賣(あへのはえひめ)を娶って生まれた御子は、

  • 若屋郎女(わかやのいらつめ )
  • 都夫良郎女(つぶらのいらつめ)
  • 阿豆王(あづのみこ)

の三柱でした。

天皇の御子は皆で十九王で、内訳は、男七柱 女十二柱でした。

この御子たちの中で、天國押波流岐廣庭命が、次の天下を治められ、その次に廣國押建金日命が天下を治められ、さらに次に天下を治められたのが建小廣國押楯命でした。

佐佐宜王(ささげのひめみこ)は伊勢神宮(いせのかむみや)をお祀りしました。

この御世の出来事としては、

竺紫君石井(つくしのきみのいはゐ)が天皇の命(みことのり)に従わず無礼だったため、物部荒甲之大連(もののべのあらかひのおほむらじ)と大伴之金村連(おほとものかなむらのむらじ)の二人に命じて、これを誅殺しました。

天皇は丁未年(ひのとのひつじ)四月九日に43歳で崩お亡くなりになり、御陵は三嶋之藍御陵(みしまのあゐのみささぎ)です。

原文

品太王五世孫 袁本杼命 坐伊波禮之玉穗宮 治天下也 天皇 娶三尾君等祖 名若比賣 生御子 大郎子 次出雲郎女二柱 又娶尾張連等之祖 凡連之妹 目子郎女 生御子 廣國押建金日命 次建小廣國押楯命二柱 又娶意祁天皇之御子 手白髮命 是大后也 生御子 天國押波流岐廣庭命波 流岐三字以音 一柱 又娶息長眞手王之女 麻組郎女 生御子 佐佐宜郎女一柱  又娶坂田大俣王之女 黑比賣 生御子 神前郎女 次田郎女 次白坂活日子郎女 次野郎女 亦名長目比賣 四柱 又娶三尾君加多夫之妹 倭比賣 生御子 大郎女 次丸高王 次耳王 次赤比賣郎女四柱 又娶阿倍之波延比賣 生御子 若屋郎女 次都夫良郎女 次阿豆王 三柱 此天皇之御子等 幷十九王 男七 女十二 此之中 天國押波流岐廣庭命者 治天下 次廣國押建金日命 治天下 次建小廣國押楯命 治天下 次佐佐宜王者 拜伊勢神宮也 此御世 竺紫君石井 不從天皇之命而 多无禮 故 遣物部荒甲之大連 大伴之金村連二人而 殺石井也 天皇御年 肆拾參歲 丁未年四月九日崩也 御陵者 三嶋之藍御陵也

簡単な解説

伊波禮之玉穗宮(いはれのたまほのみや)

実は、はっきりとした伝承地がないのですが、奈良県の明日香村であることは間違いないでしょう。

日本書紀では、最初は都を樟葉宮(枚方市楠葉)に置き、次に筒城宮(京田辺市)、次に弟国宮(長岡京市)、そして最後に大和の玉穂宮(明日香村)へと、遷都を繰り返したと記されています。

いずれも、玉穂宮以外の都の立地は、淀川・桂川・木津川といった大河の機動力を制圧するに相応しい、いわば軍事的戦略性を考慮した立地のように見えます。前線基地といったところでしょうか。

そういう意味で見ると、樟葉から京田辺へというと、大和に一歩近づいたことになります。しかし、大きく長岡京市まで後退しています。なので、きっと大和には対抗勢力がいたのでしょう。

他の誰かを皇位につけようとしている、強力な軍事力を持つ氏族が大和にいたのではないでしょうか。

和邇氏は手の内です。あとは大伴氏か物部氏のどちらかとなるのでしょうが、最終的に落ち着くことになる玉穂宮は、大伴氏の本貫地であることから、継体天皇が警戒していたのは物部氏なのではないかと思っている次第です。

お后の出身

皇后の手白髮命(たしらかのみこと)の母は春日大娘皇女。和爾氏です。

和邇氏は、奈良北東部を本拠として、木津川沿岸から南近江にかけて和爾部を配置する豪族です。

そして、お妃たちの出身地はというと、

  • 三尾君(みをのきみ)は、滋賀県高嶋市三尾里の本拠を持つ。
  • 尾張連(をはりのむらじ)は、葛城国高尾から美濃、尾張国へ移動した巨大氏族。
  • 息長眞手王(おきながまてのきみ)は、近江国坂田郡を中心に琵琶湖の東岸に分布。神功皇后(息長帯比売命)が祖とも。
  • 坂田大俣王(さかたのおほまたのみこ)は、よくわからないが、同じく坂田郡か?
  • 阿部は、大和から北近江へ移った氏族。

このように、和爾氏と近江の各氏族でもって近江国を固め、尾張国とも連携を取れる格好になりました。

いよいよ物部氏との決戦の時が近づいてきたように思えてきますね。

実際には、軍事的衝突まではいかなかったように思えますが、、、

三嶋之藍御陵(みしまのあゐのみささぎ)

大阪府高槻市郡家新町にある「今城塚古墳」が継体天皇の御陵です。ちなみに、周囲にも多くの古墳があり、これらの古墳群を総称して「三島野古墳群」といいます。

今城塚古墳は、珍しく発掘調査が行われ、考古学的には継体天皇の御陵で間違いないとされています。宮内庁は難色を示しているそうですが、、、

6世紀前半に造営された、しかも淀川水系に作られた大型前方後円墳。

それまでの、5世紀に作られた古墳は河内国南部や大和国に造営されていましたから、大和朝廷とその政権の勢力図が大きく転換した時代であったことが、この古墳からもうかがえますね。

スポンサーリンク