古事記|23代顕宗天皇①|父の遺骨を探す
顕宗天皇の宮・后妃皇子女
現代語
履中天皇(いざほわけのみこ)の御子の市邊忍齒王(いちのへのおしはのみこ)の御子である袁祁之石巢別命(をけのいはすわけのみこと)が、近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)に都を定めて天下を治められたのは8年間でした。
天皇は石木王(いはきのみこ)の娘の難波王(なにはのひめみこ)を娶られましたが、御子はいませんでした。
原文
伊弉本別王御子 市邊忍齒王御子 袁祁之石巢別命 坐近飛鳥宮 治天下捌歲也 天皇 娶石木王之女 難波王 无子也
簡単な解説
袁祁之石巢別命(をけのいはすわけのみこと)
前回までは袁祁命(をけのみこと)でしたが、天皇になると「石巣別」が付きました。
石巣(いわす)といえば、石巣比売神。伊邪那岐と伊弉冉の神生みの始めに生まれた家宅六神の内の一柱。家を建てるときの砂を神格化した神とされています。
天皇となったので、神威を表す名称にしたのでしょうか。
近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)
近飛鳥八釣宮跡がその伝承地で、奈良県高市郡明日香村大字八釣にあります。
近つ飛鳥、遠つ飛鳥は、17代履中天皇の段において初めて登場しました。その時は、その当時の都である難波宮に近い方の河内国の飛鳥を「近つ飛鳥」とし、遠い方の大和国の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼んでました。
時が流れ、この時代の都はというと、19代遠飛鳥宮(明日香村)、20代石上穴穂宮(天理市)、21代泊瀬朝倉宮(桜井市)、22代伊波禮之甕栗宮(橿原市)と、すべて奈良盆地にありました。
このようなことで、大和国の飛鳥は「遠つ飛鳥」ではなくなり「近つ飛鳥」と呼ばれるようになっていたのでしょう。
置目老媼
現代語
天皇が父の市邊王の遺骨を探しておられた時、近江国の身分の低い老女が参上して、
「王子様のご遺骨が埋められた場所を、私はよく知っておりまする。その御歯をご覧になれば、お分かりいただけましょう。」
と申し上げました。(その御歯は三重の押歯になっていました。)
そこで、住人を動員して、掘り起こし、遺骨を捜し出しました。
そして、蚊屋野(かやの)の東山に御陵を造営して埋葬し、韓帒(からふくろ)の子孫に墓守を任命しました。
その後、父の遺骨は宮に持ち帰られました。
宮に還ると、遺骨の場所を覚えていた老婆を呼び出され、御遺骨を見失わず、正しくその場所を覚えていたことを誉めて、置目老媼(おきめのおみな)と名付けました。
そして、宮中に住まわせて、厚く持てなしました。
その後、老婆の家を宮の近くに作り、毎日必ずお呼びになられました。
お住まいの部屋に鐸(大鈴)を掛け、老婆を呼ぼうと思ったときは、その鐸(大鈴)を鳴らしました。
そこで、詠まれた歌は、
浅茅原や小谷を過ぎてやってくる 鐸を鳴らしたから 置目が来るだろう
置目老媼は
「私は大変年をとってしまいましたから、国に戻ることをお願いいたします。」
と申し出ました。
その願いどおり国に戻る時に、天皇がお見送りされ、詠まれた歌は、
置目よ、近江の置目よ。明日からは山に隠れて、見えなくなるのか、、、
原文
此天皇 求其父王市邊王之御骨時 在淡海國賤老媼 參出白 王子御骨所埋者 專吾能知 亦以其御齒可知 御齒者 如三技押齒坐也 爾起民掘土 求其御骨 卽獲其御骨而 於其蚊屋野之東山 作御陵葬 以韓帒之子等 令守其陵 然後持上其御骨也 故 還上坐而 召其老媼 譽其不失見置 知其地以賜名號置目老媼 仍召入宮內 敦廣慈賜 故 其老媼所住屋者 近作宮邊 毎日必召 故 鐸懸大殿戸 欲召其老媼之時 必引鳴其鐸 爾作御歌 其歌曰
阿佐遲波良 袁陀爾袁須疑弖 毛毛豆多布 奴弖由良久母 淤岐米久良斯母
於是置目老媼白 僕甚耆老 欲退本國 故 隨白退時 天皇見送 歌曰
意岐米母夜 阿布美能於岐米 阿須用理波 美夜麻賀久理弖 美延受加母阿良牟
簡単な解説
蚊屋野(かやの)
蚊屋野は、滋賀県蒲生郡日野町の鎌掛あたりだとされています。
ここに父の市邊王と大長谷王が狩にきて、父は大長谷王に殺されたのです。それも、切り刻まれて飼い葉桶に放り込まれて、、、
韓帒(からふくろ)
大長谷王を蚊屋野に誘ったのが、韓帒(からふくろ)でした。
父が殺された原因を作った者として罰の対象となったようです。そもそも計画的犯行だったとも。
その子孫は殺されることは無かったのですが、墓守の任を言い渡されました。
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