23代顕宗天皇②|父の仇に報いる

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猪甘老人

現代語

以前に天皇が困難にあって逃げている時に食べ物を奪った、あの猪甘の老人を探しました。

探し当て、都に召喚し、飛鳥河(あすかがは)の河原で斬り、その一族の者の膝の筋を断ち切りました。

これより今に至るまで、この子孫が大和に参上する時は、必ず足を引きずる仕草をするのです。

そこで、その子孫に老人がいた所を見示されたため、この地を志米須(しめす)というのです。

原文

初天皇 逢難逃時 求奪其御粮猪甘老人 是得求 喚上而 斬於飛鳥河之河原 皆斷其族之膝筋 是以至今其子孫 上於倭之日 必自跛也 故 能見志米岐其老所在志米岐三字以音 故 其地謂志米須也

簡単な解説

天皇が困難にあって逃げている時

この逃げているときというのが、大長谷王に父が殺されたために、播磨へ逃げる途中のことです。

志米須(しめす)

猪飼の老人が斬られた飛鳥川の河原のことだと考えられています。

その場所は、ちょうど石舞台古墳のすぐ南西。飛鳥川と冬野川が合流する地点です。

処刑場所に相応しい、中洲のような河原があったのではないでしょうか。

雄略天皇御陵の破壞

現代語

天皇は父を殺した大長谷天皇(雄略天皇)を深く恨んでいて、父の御霊に報いたいと思いました。

そこで、大長谷天皇の御陵を壊そうと思い、人を遣わせようとしたとき、兄の意祁命(おけのみこと)が

「御陵を壊すために人を遣わしてはいけません。私が出向いて、天皇のお気持ちどおりに壊してまいりましょう。」

と申し上げました。天皇は、

「では兄上、おおせの通り、行ってきてください。」

とおっしゃられました。

このようにして、意祁命は自ら出向き、大長谷天皇の御陵の端の方を少し掘って、

「壊してきました」

と報告しました。

天皇は、あまりにも早い帰りを訝しく思い、

「どのように壊したのですか」

と尋ねると、

「陵の端の土を少しだけ掘りました」

と答えました。

天皇が、

「いやいや、父君の仇に報いるために、陵をことごとく破壊しなければと思っていたのに。どうして少しだけ掘ったのです?」

と訊ねられると、兄か答えますには、

「父君の恨みを大長谷天皇の霊に報いたいと思うのは誠にもって当然のことです。しかし、大長谷天皇は、我らの父の仇となりましたが、振り返ると我らの叔父であり、天下を治める天皇になりました。」

続けて

「今、父の仇を討つという思い一筋で、天下を治められた天皇の御陵を破壊すれば、後世の人は必ず非難するでしょう。ただ、父王の仇には報わずにはおれません。だから、陵の端を少し掘ってきたのです。こうすることで、恥をかかせたことを後世に示すことができるでしょう。」

とおっしゃられました。

それに対して天皇は

「うん。それも大きな道理ですな。おおせの通り了承しました。」

とおっしゃいました。

天皇が崩御された後、すぐに兄の意祁命が日継を受けました。

天皇は38歳で崩御され、天下を8年間治められました。御陵は片岡之石坏岡上(かたをかのいはつきのをかのうへ)にあります。

原文

天皇 深怨殺其父王之大長谷天皇 欲報其靈 故 欲毀其大長谷天皇之御陵而 遣人之時 其伊呂兄意祁命奏言 破壞是御陵 不可遣他人 專僕自行 如天皇之御心 破壞以參出 爾天皇詔 然隨宜幸行 是以意祁命 自下幸而 少掘其御陵之傍 還上復奏言 既掘壞也 爾天皇 異其早還上而詔 如何破壞 答白 少掘其陵之傍土 天皇詔之 欲報父王之仇 必悉破壞其陵 何少掘乎 答曰 所以爲然者 父王之怨 欲報其靈 是誠理也 然其大長谷天皇者 雖爲父之怨 還爲我之從父 亦治天下之天皇 是今單取父仇之志 悉破治天下之天皇陵者 後人必誹謗 唯父王之仇 不可非報 故 少掘其陵邊 既以是恥 足示後世 如此奏者 天皇答詔之 是亦大理 如可也 故 天皇崩 卽意祁命 知天津日繼

天皇御年 參拾捌歲 治天下八歲 御陵在片岡之石坏岡上也

簡単な解説

大長谷天皇の御陵

現在の羽曳野市高鷲にある「丹比高鷲原陵」が大長谷天皇(雄略天皇)の御陵に治定されています。

5世紀後半の大王の御陵にしては珍しく「円墳」です。円墳としては全国的に見ても大規模なものではあんりますが、違和感を覚えますね。

隣の島泉平塚古墳と合わせて前方後円墳だったという見方もあるようですよ。

天皇を諫める

その雄略天皇の御陵を破壊しようとする天皇に対して、兄がそれを諫めています。

その中で、天皇が兄が言う言葉に「命:おおせ」という表現を使っています。天皇が兄とはいえ目下の者に敬語を使っているのです。

この時点で、既に弟と兄の力関係が逆転していたように感じられるのです。さらに、日本書紀における同じシーンでは、もっと辛辣な言葉を使って諫めています。

兄弟の力関係(それぞれを担ぐ氏族の力関係ともいえましょう)が逆転し、ほどなくして天皇は38歳という若さで亡くなった、、、そしてすぐに兄が日継となった、、、

暗殺の匂いがプンプンすると、私は思うのですが、いかがでしょうか。考えすぎかしらん?

片岡之石坏岡上(かたをかのいはつきのをかのうへ)

奈良県香芝市北今市にある「傍丘磐坏丘南陵」が、顕宗天皇の御陵として治定されています。

ちなみに、北陵が武烈天皇の御陵です。

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