第一代 神武天皇②|神武東征 本文

2020年6月22日

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皇軍、海路を北へ

甲寅の年(前667)

冬 10月5日 天皇は自ら諸皇子と水軍を率いて日向を立ち東征を始めました。

一行が、速吸之門(はやすひなと)を通られたとき、一人の漁師が小舟に乗ってやって来ました。天皇はその漁師をお召しになり、

「お前は誰か。」

と尋ねました。

「私は国神で、名前は珍彦(うずひこ)と申します。曲浦(わだのうら)で釣りをしております。天神の御子がお越しになられると聞いて、お迎えに参上しました。」

と申し上げました。天皇が再び、

「お前、私の道案内をしてくれるか?」

とお尋ねになると、

「はい。先導申し上げます。」

と申し上げました。

そこで、天皇は、勅して、椎の竿を差し出して掴ませ、皇船に乗せて、水先案内とされました。そして、椎根津彦(しいねつひこ)という名をお与えになられました。これが、倭直部(やまとのあたひら)の始祖(はじめのおや)です。

一柱騰宮

天皇は進軍し、筑紫国(つくしのくに)の菟狭(うさ)に着きました

ここには、菟狭国造(うさのくにのみやつこ)の祖先である菟狭津彦菟狭津媛がいました。

二人は、菟狭の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造って、御馳走でおもてなし申し上げました。

天皇は勅して、菟狭津媛を家臣の天種子命(あめのたねこのみこと)の妻としました。天種子命は中臣氏(なかとみのうじ)の遠祖です。

岡田宮

同年(前667)

冬 11月9日 筑紫国の岡水門(をかのみなと)に到着されました。

埃宮

同年(前667)

冬 12月27日 安藝国(あぎのくに)に着き、埃宮(えのみや)に遷られました。

高嶋宮

乙卯の年(前666)

春 3月6日 吉備国(きびのくに)に遷られ、仮宮を立てて滞在されました。これを高嶋宮(たかしまのみや)といいます。

天皇は、ここでの三年の間に、軍船を建造し、武器や兵糧を整え、一挙に天下を平定しようと考えました。

戊午の年(前663)

春 2月11日 ついに、東征のために多くの船で出航されました。

河内国草香邑

難波碕(なにわのみさき)に着かれる頃、とても速い潮に出会いました。そこで浪速国(なみはやのくに)と名付けられました。また、浪花(なみはな)ともいいます。今、難波(なには)というのはこれが訛(なま)ったものなのです。

同年(前662)

冬 3月10日 川をさかのぼって、河内国の草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩之津(しらかたのつ)に着きました。

 原文

其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國神、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彥椎、此云辭毗、此卽倭直部始祖也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。

十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。

十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。

乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。

戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。

三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑靑雲白肩之津。

 かんたん解説

日向を出航して河内の日下までザックリ800km。4年の歳月をかけて進んだのですが、たったこれだけの記述とは、省略し過ぎでしょ。

というわけで、記紀では省略されている神武天皇の足跡をまとめたいと思います。

 

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