16代仁徳天皇③|皇后、和爾氏の姫を宮中から排除する作戦。

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宇治の八田若郎女

現代語

その後、大后が宴会に使う御綱柏を採りに、木国に行っている間に、天皇は異母妹の八田若郎女(やたのわきいらつめ)を召しました。

さて、大后が御綱柏を船いっぱいに積んで難波に帰ってきました。

時を同じくして、水取司の部下の吉備国の児嶋の仕丁(よほろ)が、吉備国に戻るために難波の大渡に着きました。

そこへ、大后の船より遅れて倉人女(くらひとめ)の船も着きました。

仕丁が倉人女に

「天皇はこのごろ八田若郎女をお召しになり、昼夜となく戯れておられる。もしかして、大后様はこのことご存知ないのでは?静かに幸行されておられるところを見ると、、、」

といました。

倉人女は大后の御船に行き、仕丁の言ったことを大后に伝えてしまいました。

大后は大変怒り、御船の御綱柏をすべて海に捨てました。なので、この地を御津前(みつのさき)というのです。

大后は、宮殿に戻らずに、御船で堀江を上流に向かわせ、淀川から木津川に沿って山代(やましろ)に向かいました。そして、詠んだ歌は、

山また山の山城川を
上流へとわたしが溯れば、
河のほとりに生い立つているサシブの木、
そのサシブの木の
その下に生い立つている
葉の廣い椿の大樹、
その椿の花のように輝いており
その椿の葉のように廣らかにおいでになる
わが陛下です。

山代(やましろ)を過ぎて、那良山(ならやま)の麓に着いたときに詠まれた歌

山また山の山城川を
御殿の方へとわたしが溯れば、
うるわしの奈良山を過ぎ
青山の圍んでいる大和を過ぎ
わたしの見たいと思う處は、
葛城かずらきの高臺の御殿、
故郷の家のあたりです。

このように詠い、暫くの間、筒木の韓人の奴理能美(ぬりのみ)の家に泊まりました。

天皇は大后が山代に行かれたことをお聞きになり、まずは舍人の鳥山を遣わして、歌を送られました。

山城け、
トリヤマよ。
追い附け、追い附け。
最愛の我が妻に追い附いて逢えるだろう。

更に、丸邇臣口子(わにのおみくちこ)を遣わして、送られた歌は、

ミモロ山の高台にある
オホヰコの原。
その名のような大豚の腹にある
向き合つている臟腑
せめて心だけなりと
思わないで居られようか。

また詠まれた歌は、

山またの山城の女が
木の柄のついたで掘つた大根、
その眞白な白い腕を
わさずに來たなら、
知らないとも云えようが。

原文

自此後時、大后、爲將豐樂而、於採御綱柏、幸行木國之間、天皇婚八田若郎女。於是大后、御綱柏積盈御船、還幸之時、所駈使於水取司・吉備國兒嶋之仕丁、是退己國、於難波之大渡、遇所後倉人女之船。乃語云「天皇者、此日婚八田若郎女而、晝夜戲遊。若大后不聞看此事乎、靜遊幸行。」爾其倉人女、聞此語言、卽追近御船、白之狀具如仕丁之言。於是大后大恨怒、載其御船之御綱柏者、悉投棄於海、故號其地謂御津前也。卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。此時歌曰、

都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母

卽自山代廻、到坐那良山口歌曰、

都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理

如此歌而還、暫入坐筒木韓人・名奴理能美之家也。
天皇、聞看其大后自山代上幸而、使舍人名謂鳥山人、送御歌曰、

夜麻斯呂邇 伊斯祁登理夜麻 伊斯祁伊斯祁 阿賀波斯豆麻邇 伊斯岐阿波牟加母

又續遣丸邇臣口子而歌曰、

美母呂能 曾能多迦紀那流 意富韋古賀波良 意富韋古賀 波良邇阿流 岐毛牟加布 許許呂袁陀邇迦 阿比淤母波受阿良牟

又歌曰、

都藝泥布 夜麻志呂賣能 許久波母知 宇知斯淤富泥 泥士漏能 斯漏多陀牟岐 麻迦受祁婆許曾 斯良受登母伊波米

簡単な解説

さて、仁徳天皇の次のターゲットは、八田若郎女(やたのわきいらつめ)です。

和爾氏の姫様

この乙女は、仁徳天皇の異母弟「宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)」の妹で、その兄妹の母親「宮主宅媛」というのが、これがまた大和で勢力を拡大しつつあった「和爾氏」の出身なのです。

葛城氏を象徴する石之日賣命が、同じヤマトで勢力を拡大しつある「和爾氏」を警戒するのは必定。

「和爾氏」は天理以北の奈良を勢力範囲としていて、平城山を越えて山代へ勢力を拡大しようとしていました。

加えて、死んだ兄:宇遅能和紀郎子の本拠は宇治。その残された一族も宇治に本拠を置いていたでしょう。

 

宇遅能和紀郎子が宇治天皇だったとしたら、、、
そして、仁徳天皇に暗殺されていたとしたら、、、
八田若郎女は宇治天皇と和爾氏の血を引きつぐ姫、、、

 

石之日賣命がまず向かったのは山代。そして平城山の様子を見てから、少し引き返して筒木(綴喜郡:京田辺あたり)に滞在しました。

筒木は、奈良北部と宇治の中間です。

さあさあ、

これはまさに、「和爾氏」と積怨の「宇治一族」との連携を阻止するために打ち込む「クサビ」となりましょう。牽制です。押さえです。いや、監視かも。

場合よっては、宇遅一族を滅ぼすことも視野に入れていたのやも、、、と思ったりしてます。

 

まだまだ群雄割拠の時代。ゆるやかな連合体の代表者に毛が生えたぐらいの権力であったであろう当時の大王(天皇)は、各地の豪族との結びつきは不可欠だっただろうと想像しますが、

その一方で、有力な豪族が離反しないとも限りませんので、常に警戒しておかなければいけなかったでしょう。

石之日賣命の嫉妬の説話は、そのような大王家の状況を比喩したものかもしれません。

実際、石之日賣命は、そのような密命を帯びていたのかも知れませんね。

 

ちなみに、皇后が身を寄せた奴理能美(ぬりのみ)ですが、この末裔である「調淡海」は、壬申の乱の最初、大海人皇子が吉野を脱出する時に従軍した舎人の一人らしいですよ。

石之日賣命の進軍?ルート

難波の津から、堀江を通って河内湖に出ます。
河内湖を進み、茨田の堤が築かれたであろう古川、寝屋川を遡って淀川へ。
淀川から木津川に入ると山代です。

そこからさらに木津川上流へとのぼり、泉あたりで上陸。
そこから奈良阪を通って平城山を越え、大和盆地を見渡す高台から、遠く故郷の葛城を望みました

そこから引き返して、和爾部のある(敵地のど真ん中)木津川沿いの筒木に宮を建てて滞在しました。

丸邇臣口子(わにのおみくちこ)

現代語

仁徳天皇から遣わされた口子臣(くちこのおみ)が、さきほどの御歌を申し上げる時に、雨が激しく降ってきました。

しかし、口子臣は雨を避けることもせず、その降りしきる中、宮殿の正面に平伏しました。

大后は口子臣を避けて裏正面に行きますと、口子臣が裏正面で平伏します。

そうすると、大后は今度は正面に行きました。

口子臣が姿勢を低くして庭の中程で跪いたとき、水溜りに腰まで浸かりました。

口子臣は紅い紐の付いた藍染の衣を着ていたので、紐の紅が水溜りに移り、衣の青色が紅色に変わってしまいました。

この時、大后にお仕えしていいた口子臣の妹の口日賣(くちひめ)が詠んだ歌は、

山代の筒木の宮で、
申し上げている兄上を見ると、
涙ぐまれて參ります。

大后が歌の訳をお聞きになられたので、口比賣は

「あの者は私の兄の口子臣でございます」

とお答えした。

その後、口子臣と妹の口比賣と奴理能美の三人で相談して、次のように天皇に報告しました。

「大后がここに来られた訳は、奴理能美が飼っている虫を見るためです。その虫は、一度は這う虫となり、一度は殻となり、一度は飛ぶ鳥となり、三度変化する不思議な虫なのです。大后はこの虫をご覧になるために、ここに来られました。変な意味はございません」

これを聞いた天皇は、

「それは不思議な虫だ。私も見に行こう」

とおっしゃり、高津宮から奴理能美の家に行きました。

奴理能美は、自分が飼っている三度変化する虫を大后に献上しました。

天皇が大后の居られる殿戸に立たれて詠まれた歌

山また山の山城の女が
木の柄のついた鍬で掘つた大根、
そのようにざわざわとあなたが云うので、
見渡される樹の茂みのように
やかにやつて來たのに。

天皇と大后が詠んだ六首の歌は、志都歌(しつうた)の歌返(うたひかへし)である。

 

とはいいながら、、、

天皇は八田若郎女(やたのわきらつめ )を想って、歌を贈りました。その歌は、

ヤタの一本菅は、
子を持たずに荒れてしまうだろう
惜しい菅原だ。
言葉でこそ菅原というが、
惜しい清らかな女だ。

八田若郎女が答えられた歌

八田一本菅
ひとりで居りましても、、、
陛下が良いと仰せになるなら、
ひとりでおりましても、、、

天皇は、八田若郎女の御名代(みなしろ)として、八田部(やたべ)を定めました。

原文

故、是口子臣、白此御歌之時、大雨。爾不避其雨、參伏前殿戸者、違出後戸、參伏後殿戸者、違出前戸。爾匍匐進赴、跪于庭中時、水潦至腰。其臣服著紅紐青摺衣、故、水潦拂紅紐、青皆變紅色。爾口子臣之妹・口日賣、仕奉大后、故是口日賣歌曰、

夜麻志呂能 都都紀能美夜邇 母能麻袁須 阿賀勢能岐美波 那美多具麻志母

爾太后問其所由之時、答白「僕之兄、口子臣也。」

於是口子臣、亦其妹口比賣、及奴理能美、三人議而令奏天皇云「大后幸行所以者、奴理能美之所養虫、一度爲匐虫、一度爲鼓、一度爲飛鳥、有變三色之奇虫。看行此虫而入坐耳、更無異心。」如此奏時、天皇詔「然者吾思奇異、故欲見行。」自大宮上幸行、入坐奴理能美之家時、其奴理能美、己所養之三種虫、獻於大后。爾天皇、御立其大后所坐殿戸、歌曰、

都藝泥布 夜麻斯呂賣能 許久波母知 宇知斯意富泥 佐和佐和爾 那賀伊幣勢許曾 宇知和多須 夜賀波延那須 岐伊理麻韋久禮

此天皇與大后所歌之六歌者、志都歌之歌返也。
天皇戀八田若郎女、賜遣御歌。其歌曰、

夜多能 比登母登須宜波 古母多受 多知迦阿禮那牟 阿多良須賀波良 許登袁許曾 須宜波良登伊波米 阿多良須賀志賣

爾八田若郎女、答歌曰、

夜多能 比登母登須宜波 比登理袁理登母 意富岐彌斯 與斯登岐許佐婆 比登理袁理登母

故、爲八田若郎女之御名代、定八田部也。

簡単な解説

口子臣が皇后の説得に遣わされました。何故、和爾の人を差し向けたのでしょうか。。。皇后が和爾系統の人の言うことを聞くわけもないと思うのですが。。。

さて、最終的に皇后が難波宮に還ったかどうか、古事記には記載されていませんが、日本書紀によるとですね、還っていません。

山代で亡くなっています。

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