15代応神天皇⑤|大山守命の反乱と皇位継承の結末

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大山守命の乱

現代語

応神天皇が亡くなったあと、大雀命は応神天皇の言葉を守り、宇遲能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)に天下を譲ることにしました。

しかし、大山守命は応神天皇のお言葉に反して、天下を取るために弟の宇遲能和紀郎子を殺そうと兵を集めました。

 

大雀命は兄の大山守命の挙兵を聞き、弟の宇遲能和紀郎子に遣いを出して、そのことを告げました。

宇遲能和紀郎子は驚きました。

しかし、宇遲能和紀郎子は当代きっての秀才です。

ますは、宇治川に兵を配置し、山の上に絁垣(きぬがき)を張り、帷幕(あげはり)を立てて本陣としました。

そして、敵を欺くために、その本陣に舎人(とねり)を影武者にしたてて、皇子のように吳床(あぐら)に座らせ、多くの者を出入りさせて、さもそこに皇子がいるように見せかけました。

更に、兄が川を渡るときに備えて、兄が乗る船を飾り付け、葛の根を粉にして作った滑る汁を、船のスノコに塗りつけ、踏むとすべるようにしておきました。

そして自分は身分の低い人の衣服に着替えて、船頭に化け、舵を取って待ち構えます。

 

一方、大山守命も兵を隠し、鎧は服の下に着けて隠していました。

宇治川の畔に来て、船に乗りました。偽物の本陣に弟が居ると思っているので、目の前の船頭が弟とは気付きません。

船に乗るとき、船頭に扮した弟に、

「この山には暴れものの大きな猪がいると聞いたので、その猪を討ち取ろうと思うが、うまく捕らえられるだろうか」

と尋ねました。すると、船頭が答えました。

「難しいでしょう」

「なぜだ」

「たびたび、その猪を獲ろうとする者がいましたが、捕らえることはできませんでしたので、難しいと申し上げたのです。」

船が川の中程に進んだ時、船頭が船を傾けると、兄の大山守命は、葛汁のヌメりに足をすべらせて川に落ちました。

大山守命は浮き上がってきましたが、流れのまにまに流れていきました。流されながら詠んだ歌は、

ちはやぶる 宇治の渡りに舵を取る
腕前見事な船頭さん 私の味方に来てくれろ

この時、川辺に隠れていた宇遲能和紀郎子の兵が、あちこちから一斉に矢を放ったので、大山守命は岸に近づくこともできず流されていき、とうとう訶和羅の前(かわらのさき)で見えなくなりました。

沈んだところを鉤棒で突いて探してみると、服の下の鎧に当たって、訶和羅(かわら)と音がしたので、この地を訶和羅前(かわらのさき)というのです。

その大山守命の遺体を引き上げたときに、宇遲能和紀郎子が詠んだ歌は、

ちはやぶる 宇治の渡し
渡し場に
立てる梓弓と マユミの木、
切ってやろうと、思ってみたが
取ってやろうと、思ってみたが
根元の方では 主君を思い出し
枝先の方では 妻を思い出し
つらいことを そこで思い出し
愛しいことを そこで思い出し、
切らないで来た 梓弓とマユミの木。

大山守命の遺骨は、那良山(ならやま)に埋葬しました。

ちなみに大山守命は、

  • 土形君(ひぢかたのきみ)
  • 弊岐君(へきのきみ)
  • 榛原君(はりはらのきみ)

らの祖になります。

原文

故、天皇崩之後、大雀命者、從天皇之命、以天下讓宇遲能和紀郎子。於是、大山守命者、違天皇之命、猶欲獲天下、有殺其弟皇子之情、竊設兵將攻。爾大雀命、聞其兄備兵、卽遣使者、令告宇遲能和紀郎子。故聞驚、以兵伏河邊、亦其山之上、張絁垣立帷幕、詐以舍人爲王、露坐吳床、百官恭敬往來之狀、既如王子之坐所而、更爲其兄王渡河之時、具餝船檝者、舂佐那此二字以音葛之根、取其汁滑而、塗其船中之簀椅、設蹈應仆而、其王子者、服布衣褌、既爲賤人之形、執檝立船。

於是、其兄王、隱伏兵士、衣中服鎧、到於河邊、將乘船時、望其嚴餝之處、以爲弟王坐其吳床、都不知執檝而立船、卽問其執檝者曰「傳聞茲山有忿怒之大猪、吾欲取其猪。若獲其猪乎。」爾執檝者、答曰「不能也。」亦問曰「何由。」答曰「時時也往往也、雖爲取而不得。是以白不能也。」渡到河中之時、令傾其船、墮入水中、爾乃浮出、隨水流下。卽流歌曰、

知波夜夫流 宇遲能和多理邇 佐袁斗理邇 波夜祁牟比登斯 和賀毛古邇許牟

於是、伏隱河邊之兵、彼廂此廂、一時共興、矢刺而流。故、到訶和羅之前而沈入。訶和羅三以以音。故、以鉤探其沈處者、繋其衣中甲而、訶和羅鳴、故號其地謂訶和羅前也。爾掛出其骨之時、弟王歌曰、

知波夜比登 宇遲能和多理邇 和多理是邇 多弖流 阿豆佐由美麻由美 伊岐良牟登 許許呂波母閇杼 伊斗良牟登 許許呂波母閇杼 母登幣波 岐美袁淤母比傳 須惠幣波 伊毛袁淤母比傳 伊良那祁久 曾許爾淤母比傳 加那志祁久 許許爾淤母比傳 伊岐良受曾久流 阿豆佐由美麻由美

故其大山守命之骨者、葬于那良山也。是大山守命者、土形君、弊岐君、榛原君等之祖。

簡単な解説

訶和羅前(かわらのさき)

京都府京田辺市河原里ノ内に「伽和羅古戦場跡」があります。京田辺駅から東へすぐのところ木津川沿岸です。

こちらの案内板には、『崇神天皇の段のヤスハニ王の反乱で、戦に破れて逃げ惑うハニヤス王軍の兵たちが甲(かぶと)を脱ぎ捨てた場所であり、応神天皇の段で山守命の水死体が見つかった場所』と書かれています。

しかしです。たしかに前者は木津川で行われた合戦ですが、後者は宇治川です。

宇治川で流された山守命が木津川を逆流して遡ることは無かろうと思ったりしますよね。

宇治川は琵琶湖から流れ出て山間部を流れ、宇治の地で平地へ出ます。そこから先は京都盆地で最も低い場所なので、水が溜まります。それが巨椋池(おぐらいけ)です。

飛鳥・奈良時代の巨椋池は巨大でしたから、木津川沿いの京田辺まで池だった可能性も無くは無いかも。。。でもやっぱり無理が。。。

もうひとつの候補地は、八幡市神原です。神原は、昔は「かわら」と読んだらしく、さらに、男山の麓の高良神社も昔は「河原神社」と呼ばれていたようです。

地理的には、こちらの方が現実的であるように思います。

那良山(ならやま)

奈良県奈良市法蓮町に「境目谷古墳」があり、これが応神天皇の皇子「山守命」の墓に治定されています。

 

大雀命と宇遲能和紀郎子との譲り合い

応神天皇が存命の頃、皇位の継承は宇遲能和紀郎子に命じられていました。

しかし、大雀命と宇遲能和紀郎子とのお二人で、互いに皇位を譲り合うことになっていました。

そんな折に、海人が大贄(おほにへ)を献上しました。大贄は天皇が受け取るしきたりです。

父の命に背くわけにはいきませんので、兄の大雀命は大贄を受け取りません。弟の宇遲能和紀郎子に献上するよう海人に指示しました。

しかし、弟も受け取らずに、兄に献上するよう海人に指示しました。

この譲り合いは何日も続きました。しかも、譲り合いは一度や二度ではなかったので、海人は往来に疲れ切ってしまって、泣いてしまいました。

そこで、諺(ことわざ)に「海人だから 自分の物だから泣くのだ」というのです。

しかし、宇遲能和紀郎子は早くに亡くなられ、大雀命が天下を治めることになりました。

原文

於是、大雀命與宇遲能和紀郎子二柱、各讓天下之間、海人貢大贄。爾兄辭令貢於弟、弟辭令貢於兄、相讓之間、既經多日。如此相讓、非一二時。故、海人既疲往還而泣也、故諺曰「海人乎、因己物而泣」也。然、宇遲能和紀郎子者早崩、故大雀命治天下也。

簡単な解説

譲り合い?

日本書紀によると、

遲能和紀郎子は儒教の大家となっていて、世継ぎは長兄がなるべきとの考え方。一方、大雀命は父の遺言に背くことは出来ないと考えたことで、譲り合いとなった。その期間は3年

本当でしょうか。

宇治に縣神社という神社があり、ここの祭り「暗闇祭り」に、譲り合いの真相が隠されていると囁かれています。

暗闇祭りとは、竹串に奉書紙を何枚も何枚も重ねて貼り付けた玉ねぎのような球体を乗せた「梵天」と呼ばれる神輿を振り回して、ちぎれた奉書紙に安産のご利益があるという祭りです。

    • まず「梵天」が宇治神社御旅所を出発します。
    • 縣神社で「梵天」に神様を遷って頂きます。
    • 「梵天」を宇治神社御旅所に担ぎ込みます。
    • 御旅所で「梵天」が振り回され、奉書紙が引きちぎられます。
    • 最後に、「梵天」を縣神社に戻して、神様をお返しします。

この時、街は一斉に明かりを消します。だから暗闇祭りと呼ばれるそうです。

これが、大雀命による「遲能和紀郎子暗殺」の様子を伝えるものだというのです。

というのも、昔は、この梵天を担いで振り回すのは、「奉賛会」という県外の「講社」の人々だったそうです。その講社は18社あり、それらはすべて河内国にあったのです。

おかしいでしょ?

また、播磨国風土記に「宇治天皇」という記載がありますから、遲能和紀郎子は皇位についたとも考えられるのです。

このようなことから想像するに、、、

遲能和紀郎子は父の命の通り、皇位につきました。しかし、大雀命は虎視眈々と皇位を狙っていました。

ある日、大雀命が手配した18人の精鋭が、河内国から淀川を遡り、宇治川を遡ってやってきます。そして暗闇の中、宇治の宮に忍び込んで遲能和紀郎子を拉致して暗殺。その死骸を宇治の宮に放り込みました。

宇治天皇の在位期間は3年。次の天下は大雀命が治めました。

宇治の人々は、怖くて明かりを消したのでしょうね。

真相は定かではありません。

でも、宇治に代々住む人々が「この祭りは宇治の祭りじゃない」と言っているという事実が物語っていると思います。

恐るべし、仁徳天皇。

 

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