古事記|17代履中天皇①|墨江中王の反乱
履中天皇の宮・后妃皇子女
現代語
仁徳天皇の子の伊邪本和氣命(いざほわけのみこと)は伊波禮之若櫻宮(いはれのわかさくらのみや)を都として、天下を治めました。
天皇が葛城之曾都毘古(かづらきのそつびこ)の子の葦田宿禰(あしだのすくね)の娘の黑比賣命(くろひめのみこと)を娶って生まれた御子は、
- 市邊之忍齒王(いちのへのおしはのみこ)
- 御馬王(みまのみこ)
- 青海郎女(あをみのいらつめ)亦の名を飯豐郎女(いひどよのいらつめ )
三柱でした。
原文
子、伊邪本和氣命、坐伊波禮之若櫻宮、治天下也、此天皇、娶葛城之曾都毘古之子 葦田宿禰之女 名黑比賣命、生御子、市邊之忍齒王、次御馬王、次妹青海郎女 亦名飯豐郎女 。三柱。
簡単な解説
伊波禮之若櫻宮(いはれのわかさくらのみや)
奈良県桜井市谷344に伝承地があります。また、若櫻神社を比定地とする説も。
黑比賣命(くろひめのみこと)
葛城曾都毘古ー葦田宿禰ー黒比賣命。
葛城曾都毘古ー石之比賣ー履中天皇。
ですから、黒比賣と履中天皇は従妹同士ということになります。ここでもがっちりと葛城氏が皇室に食い込んでいることがわかります。
墨江中王の乱
履中天皇は、最初は父の宮であった難波宮(なにはのみや)にいらっしゃいました。
大嘗祭の宴会の時、天皇は酒を飲みすぎてそのまま寝てしまいました。
それを見た弟の墨江中王(すみのえのなかつみこ)が天皇を殺そうとして、宮中に火を放ちました。
倭漢直(やまとのあやのあたひ)の祖の阿知直(あちのあたひ)が天皇を抱きかかえて助け出し、馬に乗せて大和に逃げました。
多遲比野(たぢひの)に着いた時に、ようやく天皇が目を覚まされて、
「ここはどこか?」
と尋ねましたので、阿知直が、
「墨江中王が宮殿に火を放ちましたので、大和へ逃げる途中です」
と答えました。そこで、天皇が詠まれた歌は、
多遲比野で 寝ると知りせば
屏風をば もって来たのに
寝ると知りせば
波邇賦坂(はにふざか)から難波宮の方を見ると、炎が見えたので、天皇がまた詠まれた歌は、
ハニフ坂に 我立ち見れば、
かぎろいの 燃える家々 妻の家あたり
さて、倭に入るために大坂山(おほさかやま)を登ろうとしたところで乙女に会いました。
その乙女が、
「武器を持った人等が大坂山の峠を塞いでいます。回り道して當岐麻道(たぎまのみち)から山越えをしてください」
と申し上げました。
そこで、天皇が詠まれた歌
大坂で 逢った乙女に 道問えば
真っ直ぐではなく 當麻路を勧めた
このようにして天皇一行は、石上神宮(いそのかみのかむみや)にお着きになられました。
原文
本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒宇良宜而大御寢也。爾其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿。於是、倭漢直之祖・阿知直、盜出而乘御馬令幸於倭。故到于多遲比野而寤、詔「此間者何處。」爾阿知直白「墨江中王、火著大殿。故率逃於倭。」爾天皇歌曰、
多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆
到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天皇亦歌曰、
波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理
故、到幸大坂山口之時、遇一女人、其女人白之「持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、廻應越幸。」爾天皇歌曰、
淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流
故、上幸坐石上神宮也。
簡単な解説
難波宮(なにはのみや)
難波の高津宮でしょう。
多遲比野(たぢひの)
大昔の丹比郡。羽曳野に丹比という地名が残っていますので、このあたりかと思います。
波邇賦坂(はにふざか)
丹比の東に埴生(はにう)という地名が残っています。このあたりで埴輪を作る土が取れたから埴生だとか。
埴生坂とは、古代の幹道「竹内道」が羽曳野丘陵を越えるときの上り坂でしょうから、伊賀3丁目の坂道が埴生坂ではないでしょうか。
大坂山(おほさかやま)
田尻峠を越える「長尾道」の通称が「大坂越」らしいです。ですから田尻峠あたりの山中に、武装勢力が待ち構えていたと想像できます。
當岐麻道(たぎまのみち)
その大坂越えが比較的平坦な道路なのにくらべ、竹内道は急峻な山越えとなります。
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