日本書紀|第十五代 応神天皇③|さばめく海人・高速船「枯野」

スポンサーリンク

さばめく海人

応神3年(272年)

十月三日 あづま蝦夷えみしがことごとく朝貢しました。そこで、蝦夷を働かせて厩坂道うまやのさかみち を造らせました。

十一月 あちこちから海人あま がさばめいて(わけの分からない言葉で騒ぎ立てて)、命令に従いませんでした。そこで、阿曇連あづみのむらじ の祖の大濱宿禰おほあまのすくね を派遣して、騒動を収めさせました。これにより、大濱宿禰を海人のみこともち としました。諺に「さばあま」というのは、これが起源です。

この年 百済の辰斯王しんしおう が即位して、貴国かしこきくに(日本)の天皇に対して失礼がありました。そこで、紀角宿禰きのつのすくね ・羽田矢代宿禰はたやしろのすくね ・石川宿禰いしかはのすくね ・木菟宿禰つくすのすくね を遣わして、その失礼な状態を責めました。

ですので、百済国は辰斯王しんしおう を殺して謝罪しました。紀角宿禰きのつのすくねらは阿花あか を国王に立てて、帰国しました。

 原 文

三年冬十月辛未朔癸酉、東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。

 ひとことメモ

厩坂道

その場所は明確にはされていませんが、軽衢かるのちまた(橿原市石川町丈六の交差点)から南へ伸びる緩やかな坂道のことだと言われています。高低差は10m程度で、坂道の頂上の東に、奈良県下最大の前方後円墳「丸山古墳」があります。

訕哤(さばめく・さばめき)

訕哤:さばめき。今では使われない言葉です。

漢字の意味を調べると、、、

  • 訕・・・そしる。悪口を言う。馬鹿にする。
  • 哤・・・言葉が入り乱れてわからない。まじり乱れた言語。

ですから、悪口を口々に騒ぎ立てている様子を表しているのでしょう.

しかし、諺の「さばあま」の意味は、全くわかりません。

この諺が理解できるような「さばめく」の意味が、もしかしたら別にありそうな気がします。

阿曇連(あづみのむらじ)

阿曇氏あづみのうじは、古代の代表的な海人族で、その発祥の地は筑前国糟屋郡阿曇郷といわれています。伊邪那岐命いざなぎのみことの禊で現れた「綿津見三神わたつみのさんしん」が祖神で、志賀島にある志賀海しがうみ神社がその氏神となります。

綿津見三神の他にも、住吉族が奉斎する住吉三神すみよしのさんしん、宗像族が奉斎する宗像三女神むなかたのさんじょしんという海神が知られています。みんな三神セット。これは航海の時に目印としたオリオン座の三ツ星を象徴しているのでは?と言われています。

神話に登場する順番は、綿津見三神→住吉三神→宗像三神。

ですから、海人族を統括した部族が、阿曇氏→住吉族→宗像族と変遷していったと考える人もおられます。

 

高速船「枯野」

応神5年 甲午(きのえのうま) 274

八月十三日 諸国に命令して、海人あまべ ・山守部やまもりべ を定められました。

十月 伊豆国に、船を造らせました。長さ十丈です。船が完成したので、試しに海に浮かべてみました。すると軽く浮かんで、馳るように早く進みました。よって、その船の名を枯野からの といいます。

船が軽く速く走ったから「枯野」とは、意味が違います。もしかしたら、軽野(かるの)と言ったのを後の人が訛ったものかも知れません

 原 文

五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國、定海人及山守部。冬十月、科伊豆國、令造船、長十丈。船既成之、試浮于海、便輕泛疾行如馳、故名其船曰枯野。由船輕疾名枯野、是義違焉。若謂輕野、後人訛歟。

 ひとことメモ

早く進むから「枯野からの」と名付けられた、というのは、???と思いますよね。

前項の「名前の交換」の時もそうでしたが、我々が???と感じる部分は、書記編纂者も同じような疑問を持ったようで、編纂者の意見が注釈として入っています。

船が軽く速く走ったから「枯野」とは、意味が違います。もしかしたら、軽野(かるの)と言ったのを後の人が訛ったものかも知れません

このような、編纂者の意見が挿入される形式は、神功皇后記までは無かったと思います。おそらく、ここからは、別の編纂者が編纂したのかな?と想像します。

この編纂者は、自分の意見を挟んできますから、本文にも彼の主観が入っているかもしれないですよ。

スポンサーリンク