17代履中天皇②|水齒別命の活躍-近つ飛鳥と遠つ飛鳥-

2019年11月13日

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水齒別命の活躍

現代語

そこへ、2番目の弟の水齒別命(みづはわけのみこと)が会いに来ましたが、天皇は警戒しています。

「私は、あなたが墨江中王(すみのえのなかつみこ)と同じことを考えているのではないかと疑っている。だから、会って話はしない」

と、天皇がおっしゃいましたので、水齒別命は、

「いえいえ、私にはそのような気持ちはありません。兄の墨江中王とは違いますよ」

と答えました。すると、天皇は

「そのように言うのなら、墨江中王を殺してこい!その時は会おう」

とおっしゃいました。

そこで、水齒別命は難波に戻り、墨江中王の側近の隼人の曾婆加理(そばかり)をだまして、

「もし、そなたが私の言うとおりにすれば、私が天皇になった暁には、そなたを大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ」

と尋ねると、

「仰せのとおりにいたします」

と答えました。そこで、多くの品物を与えて、

「ならば、そなたの主人を殺せ!」

と言いました。

このようなことから曾婆訶理は、自分の主人の墨江中王が厠に入る時に矛で刺し殺したのです。

その後、水齒別命は、曾婆訶理を連れて倭に行こうとされ、大坂山の登り口まで来たとき、

・・・曾婆訶理は私にとっては大功だが、自分の主人を殺すとは不義だ。とは言え、私に対する功に報いなければ、私の信が立たない。信が立たなければ相手の心根は惶(かしこし)に変わるだろう。だから、まず功に報いてから、不義の罰を与えよう・・・

と決めました。そこで、曾婆訶理に

「今日はここで休もう。まず、そなたに大臣の位を授けてから、明日、倭に行こう」

と言いました。

大坂山の登り口に假宮(かりみや)を作って宴会をし、隼人の曾婆訶理に大臣の位を授け、部下たちに令拝させました。

曾婆訶理は望みが叶ったと喜びました。

これで水齒別命は曾婆訶理の功に報いたとしました。

次に、水齒別命は曾婆訶理に、

「今日は大臣と酒を酌み交わそう」

と言って、顔が隠れるほどの大きな盃に酒を注いで、まず自らが飲み、次に曾婆訶理に与えました。

曾婆訶理が飲んで、大盃が顔を覆った時、敷物の下に隠してあった剣で曾婆訶理を切り殺しました。

これが不義の罰です。

そして、翌日(あす)に倭に向かいました。そこで、この地を近飛鳥(ちかつあすか)とうのです。

倭に着くと、

「今日はここに泊まり、祓禊をして、明日(あす)神宮に参ろう」

と言った。そこで、この地を遠飛鳥(とほつあすか)といいます。

石上神宮に行き、天皇に

「お言い付けどおりに事が終わりましたので、ご報告に参りました」

と申し上げました。

ここにようやく天皇は警戒を解き、水齒別命と会って語らいました。

天皇は阿知直(あちのあたひ)に、褒美として初めての蔵官(くらのつかさ)の役を与え、田地も与えました。

原文

於是、其伊呂弟水齒別命、參赴令謁。爾天皇令詔「吾疑汝命若與墨江中王同心乎、故不相言。」答白「僕者無穢邪心、亦不同墨江中王。」亦令詔「然者今還下而、殺墨江中王而上來、彼時吾必相言。」故卽還下難波、欺所近習墨江中王之隼人・名曾婆加理云「若汝從吾言者、吾爲天皇、汝作大臣、治天下那何。」曾婆訶理答白「隨命。」

爾多祿給其隼人曰「然者殺汝王也。」於是曾婆訶理、竊伺己王入厠、以矛刺而殺也。故率曾婆訶理、上幸於倭之時、到大坂山口、以爲「曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然、不賽其功、可謂無信。既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身。」是以、詔曾婆訶理「今日留此間而、先給大臣位、明日上幸。」留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。

爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。故、參出石上神宮、令奏天皇「政既平訖參上侍之。」爾召入而相語也。天皇於是、以阿知直、始任藏官、亦給粮地。

簡単な解説

近つ飛鳥

水齒別命一行は、難波から大和の石上神宮へ行くまでの間に、2泊しました。その難波宮に近い方を近つ飛鳥と呼びます。

難波と大和を結ぶ竹内街道沿い、いまの羽曳野市飛鳥あたりとされています。中心には名神大社「飛鳥戸神社」が鎮座しています。

少し南の河南町には、近つ飛鳥風土記の丘があり、その中心に安藤忠雄氏設計の「近つ飛鳥博物館」があります。

遠つ飛鳥

近つ飛鳥を出立して大和国に入り2泊目した場所を難波宮から遠い方の飛鳥ということで遠つ飛鳥と名付けました。

竹内街道から横大路を通って、上ツ道を南下したのでしょうか。今の奈良県の飛鳥あたりとされています。

事績と御陵

現代語

この御世に若櫻部臣(わかさくらべのおみ)らに若櫻部の名を与え、比賣陀君(ひめだのきみ)らに姓(かばね)を与えて比賣陀之君とされました。また、伊波禮部(いはれべ)を定められました。

天皇は64歳、壬申年正月三日崩でお亡くなりになり、御陵は毛受(もず)にあります。

原文

亦此御世、於若櫻部臣等、賜若櫻部名、又比賣陀君等、賜姓謂比賣陀之君也。亦、定伊波禮部也。天皇之御年、陸拾肆歲。壬申年正月三日崩。御陵在毛受也。

簡単な解説

毛受の御陵

仁徳天皇陵を中心とした百舌鳥古墳群の中、仁徳天皇陵から南西へ1.5kmの百舌鳥耳原南陵が履中天皇の御陵に治定されています。

JR阪和線の上野芝駅が最寄りです。

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