古事記|11代垂仁天皇②|皇子たちの事績と系譜
印色入日子命の事績
現代語
12代景行天皇の同母兄の印色入日子命は、血沼池(ちぬのいけ)・狹山池(さやまのいけ)・日下之高津池(くさかのたかつのいけ)を造営して農作物の収穫力を強化しました。
また、印色入日子命は、鳥取之河上宮(ととりのかはかみのみや)におられたとき、太刀を千本作らせて、石上神宮(いそのかみのかむみや)に奉納。その宮におられて、河上部(かはかみべ)を作られました。
景行天皇の同母弟の大中津日子命は、
- 山邊之別(やまのべのわけ)
- 三枝之別(さへぐさのわけ)
- 稻木之別(いなきのわけ)
- 阿太之別(あだのわけ)
- 尾張國之三野別(をはりのくにのみののわけ)
- 吉備之石无別(きびのいはなしのわけ)
- 許呂母之別(ころものわけ)
- 高巣鹿之別(たかすかのわけ)
- 飛鳥君(あすかの君)
- 牟禮之別(むれのわけ)
らの祖となりました。
景行天皇の同母妹の倭比賣命は、伊勢大神宮(いせのおほかみのみや)をお祀りした初代の斎宮です。
伊許婆夜和氣王は
- 沙本穴太部之別(さほのあなほべのわけ)の祖です。
阿邪美都比賣命は稻瀬毘古王(イナセビコの皇子)に嫁ぎました。
落別王者は
- 小月之山君(ヲツキノヤマの君)
- 三川之衣君(ミカハノコロモの君)
の祖です。
五十日帶日子王は
- 春日山君(カスガノヤマの君)
- 高志池君(コシノイケの君)
- 春日部君(カスガベの君)
の祖です。
伊登志和氣王は子がいなかったので、子代(こしろ)として、定伊登部(いとしべ)を作られました。
石衝別王は
- 羽咋君(ハクヒの君)
- 三尾君(ミヲの君)
の祖です。
布多遲能伊理毘賣命は倭建命(ヤマトタケルの命)の后(きさき)となられました。
原文
次印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口、是奉納石上神宮、卽坐其宮、定河上部也。次大中津日子命者、山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无別、許呂母之別、高巢鹿之別、飛鳥君、牟禮之別等祖也。次倭比賣命者、拜祭伊勢大神宮也。次伊許婆夜和氣王者、沙本穴太部之別祖也。次阿邪美都比賣命者、嫁稻瀬毘古王。次落別王者、小月之山君、三川之衣君之祖也。次五十日帶日子王者、春日山君、高志池君、春日部君之祖。次伊登志和氣王者、因無子而、爲子代定伊登部。次石衝別王者、羽咋君、三尾君之祖。次布多遲能伊理毘賣命者、爲倭建命之后。
簡単な解説
血沼池
泉佐野市下瓦屋の「布池」「道の池」などが候補ですが、はっきりしません。
狹山池
南海高野線狭山駅の西にある狭山池でしょう。
日下之高津池
東大阪の日下とも、泉州の高石とも。はっきりしていません。
鳥取之河上宮
大阪府阪南市緑ヶ丘1丁目3−6にある玉田山古墳公園内に、菟砥川上宮(鳥取之河上宮)旧跡碑があります。
石上神宮
石上神宮は、奈良県天理市にある神宮で、日本神話に度々登場すします。当然ながら伊勢の神宮よりも歴史があります。
こちらは十種の神宝に宿る神を祀っていて、この神宝を管掌することは一つのステータスでもあったようです。
五十瓊敷命(印色入日子命)は剣1千本を作って、石上神宮に納めました。このことで、五十瓊敷命(印色入日子命)が石上神宮の神宝を管掌したと日本書紀にあります。
さらに、それから50年弱のち。五十瓊敷命が老齢となったため、石上神宮神宝の管掌を妹の大中姫命に託しましたが、大中姫命は、か弱いことを理由に神宝を物部十千根に授けて治めさせました。
このことで、その後代々、物部氏によって石上神宮が管理されていくことになったのです。
倭比賣命
10代崇神天皇の皇女「トヨスキイリヒメ」の後を継いで、天照大御神の御杖代となって各地を巡行し、伊勢の五十鈴川の畔に辿り着きました。
そして神宮を創建し、神宮の初代斎宮となりました。
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