11代垂仁天皇⑤|本牟智和氣御子(ほむちわけのみこ)

スポンサーリンク

本牟智和氣御子

原文

本牟智和氣御子(ホムチワケの皇子)は、そのような、恐ろしい中で生を受けた可哀そうな子です。

だからこそ垂仁天皇は、よく遊んでやりました。

たとえば、尾張之相津(をはりのあひず)にあった二俣の杉で、二俣の船を作って、倭之市師池(やまとのいちしのいけ)や輕池(かるのいけ)に浮かべて遊んだり、、、

このように、天皇自ら心を込めて大切に育てたのですが、この御子は、長い髪が胸まで届くまでになっても言葉を話しませんでした。

ところがある時、大空を飛んでゆく白鳥の声を聞かれて、初めて言葉のような音を発したのです。

そこで、天皇は、きっとあの白鳥がいれば話しができるようになるかもしれないと思い、その白鳥を捕らえさせるために山邊之大鶙(ヤマノベノオホタカ)を遣わせました。

山邊之大鶙は、白鳥を追い求め、紀国から播磨国に至り、

そこから、因幡国、丹波国、但馬国・近江国・美濃国・尾張國・信濃国・高志國まで追って行きました。

そして、越の国のとある港で、網で罠を仕掛けて白鳥を捕らえ、天皇に献上しました。その為、この港を和那美之水門といいます。

あの白鳥を見せたならば言葉を話すのでは?と考えたのですが、結局、御子は話すことはありませんでした。

原文

故、率遊其御子之狀者、在於尾張之相津、二俣榲作二俣小舟而持上來、以浮倭之市師池・輕池、率遊其御子。然、是御子、八拳鬚至于心前、眞事登波受。此三字以音。故、今聞高往鵠之音、始爲阿藝登比。自阿下四字以音。爾遣山邊之大鶙此者人名令取其鳥。故是人追尋其鵠、自木國到針間國、亦追越稻羽國、卽到旦波國、多遲麻國、追廻東方、到近淡海國、乃越三野國、自尾張國傳以追科野國、遂追到高志國而、於和那美之水門張網、取其鳥而持上獻。故、號其水門謂和那美之水門也。亦見其鳥者、於思物言而、如思爾勿言事。

簡単な解説

和那美之水門

新潟のとある港です。今のところ、ここがどこなのかわからないということになってますが、新潟県長岡市の川口和南津ではないかという説があります。

出雲の大神

天皇は、期待が大きかったただけに、大層落胆しました。「しかたない。。。」と床に就きました。

と、その夜のこと、

「我が宮を天皇のお住まいのように立派なものにしてくれるのなら、御子は必ず話すことができるようになるだろう。」

というお告げがありました。

太占(ふとまに)でもって、どこの神かと占うと、なんと出雲の大神の祟りでした。

続いて、御子を出雲大神の宮に遣わすときのお供を誰にするかを占ったところ、曙立王(アケタツの皇子)と出ました。

そこで、曙立王に誓約をさせました。

曙立王が、

「出雲大神を拝めば、本当に良い結果が得られるのならば、鷺巢池(さぎすのいけ)の樹にいる鷺よ、落ちよ!」

と誓約をすると、、、

いうが早いか、鷺は落ちて死んでしまいました。また、

「誓約(うけい)として、生き返れ!」

というと、鷺は生き返りました。

さらに、甜白檮の前の葉廣熊白檮を誓約で枯らせたり、蘇らせたりしました。

このような超人的な霊力を持つ曙立王に名を授けました。倭者師木登美豐朝倉曙立王(ヤマトハシキトミトヨアサクラノアケタツの皇子)といいます。

さて、天皇は、曙立王と菟上王(ウナカミの皇子)の二人を本牟智和氣御子に付けて、出雲大神の宮に向かわせました。

出立の時、どの道を通るのが良いか占ったところ、

「奈良道から行くと、足や目の不自由な人に会うだろう。大坂道から行っても、足や目の不自由な人に会うだろう。ただ、紀国道から行くと、幸先よろし」

と出ましたので、この紀国からの道の行く先々で、品遲部(ほむぢべ)を定められました。

原文

於是、天皇患賜而、御寢之時、覺于御夢曰「修理我宮如天皇之御舍者、御子必眞事登波牟。自登下三字以音。」如此覺時、布斗摩邇邇占相而求何神之心、爾祟、出雲大神之御心。故、其御子令拜其大神宮將遣之時、令副誰人者吉、爾曙立王食ト。故、科曙立王令宇氣比白宇氣比三字以音「因拜此大神、誠有驗者、住是鷺巢池之樹鷺乎、宇氣比落。」

如此詔之時、宇氣比其鷺墮地死、又詔之「宇氣比活爾。」者、更活。又在甜白檮之前葉廣熊白檮、令宇氣比枯、亦令宇氣比生。爾名賜曙立王、謂倭者師木登美豐朝倉曙立王。登美二字以音。卽曙立王・菟上王二王、副其御子遣時、自那良戸、遇跛盲、自大坂戸、亦遇跛盲、唯木戸是掖月之吉戸ト而出行之時、毎到坐地定品遲部也。

簡単な解説

特にございませんです。

スポンサーリンク