11代垂仁天皇⑦|天皇の再婚と田道間守

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丹波の四女王

現代語

天皇は、先の皇后(沙本毘賣)が推挙したとおりに、丹波の美知能宇斯王(ミチノウシの皇子)の娘たちを召し出させました。

先の皇后は比婆須比賣命(ヒバスヒメの命)・弟比賣命(オトヒメの命)の二人の名を挙げていましたが、歌凝比賣命(ウタコリヒメの命)・圓野比賣命(マトノヒメの命)も合わせた四名を召し出させました。

でも結局は、比婆須比賣命弟比賣命の二人は手元に留め置かれましたが、妹二人は醜かったので故郷に返されました。

このため、圓野比賣は、

「同じ四姉妹の中から、醜いからという理由で追い返されるのは、近所に聞こえても、とても恥ずかしいことです。」

と言って、山代の国の相楽(やましろのくにのさがらか)で、木の枝で首吊り自殺をしようとされました。そこで、この地を懸木(さがりき)といいました。今は相楽(さがらか)といいます。

しかし、死にきれず、故郷の丹波に向かう途中で、自ら深い谷に落ちて死にました。この地を墮国(おちくに)と呼びました。今は弟国(おとくに)です。

原文

又隨其后之白、喚上美知能宇斯王之女等、比婆須比賣命・次弟比賣命・次歌凝比賣命・次圓野比賣命、幷四柱。然、留比婆須比賣命・弟比賣命二柱而、其弟王二柱者、因甚凶醜、返送本土。於是、圓野比賣慚言「同兄弟之中、以姿醜被還之事、聞於隣里、是甚慚。」而、到山代國之相樂時、取懸樹枝而欲死、故號其地謂懸木、今云相樂。又到弟國之時、遂墮峻淵而死、故號其地謂墮國、今云弟國也。

簡単な解説

醜いから返す

神代の時代にも、同じようなお話がありましたね。邇邇芸命が大山津見神の二人の娘のうち、木花咲耶比売とだけ結婚して、醜い姉の磐長比売は送り返しました。

これによって、天神御子には寿命に限りが出来てしまったのでした。

もう一つ、邇邇芸命と同じような話があったのもお気づきでしょう。

その木花咲耶比売は、火の中で出産しましたよね。垂仁天皇の御子も燃える稲城の中で生まれたため、本牟智和氣御子と名付けられました。

天孫降臨の邇邇芸命と、垂仁天皇の話には、類似点があるようです。これが何を意味するのかは、わかりませんが、、、

相楽

現在の京都府相楽郡です。あまりにも広いので、ピンポイントの場所は分かりません。

ハニヤスヒコ王の反乱で戦場となったのも相楽郡です。相楽は、あまり、いいイメージじゃないですね。

弟国

京都府乙訓郡です。大山崎の方でしょうか。丹波へ向かう山道のどこかで深い淵に身を投げたのでしょう。

 

多遲摩毛理

現代語

天皇は、三宅連(みやけのむらじ)らの祖の多遲摩毛理(タヂマモリ)を常世國(とこよのくに)に派遣して、時じくの香ぐの木の実を求めさせました。

多遲摩毛理は常世國に行き、その木を手に入れ、木の実の縵型を八本、また、木の実の矛型を八本を持ち帰りました。

しかし、時すでに遅しです。天皇は崩御された後でした。

そこで、多遲摩毛理は、木の実を二つに分け、縵型四本と矛型四本を大后に献上し、縵型を四本と矛型四本を天皇の御陵(みささぎ)の門前にお供えして、その木の実を捧げ持ち、

「スメラミコトさま~。私、多遲摩毛理めは、常世国の時じくの香ぐの木の実を持参奉りましたぞよ~。」

と報告し、悲しみのあまり亡くなりました。

この時じくの香ぐの木の実は、今の橘(たちばな)です。

原文

又天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。

簡単な解説

多遲摩毛理

日本書紀では「田道間守」といいます。お菓子の祖神として祀られることが多い人です。

多遲摩毛理の墳墓は、垂仁天皇陵の水濠に浮かぶ島です。いかにも、ですね。

時じくの香ぐの木の実

橘のこと。橘はミカンの一種です。常緑樹なので不老不死の力を持つと信じられていたようですよ。

縵型・矛型

よくわかりません。

 

垂仁天皇の陵

天皇は153歳でお亡くなりになり、御陵は菅原の御立野(すがはらのみたちの)の中にあります。

大后(おほきさき)の比婆須比賣命(ひばすひめの命)の時に、石祝作(いしきつくりべ)・土師部(はにしべ)を定められました。

大后の山陵は狹木の寺間の陵(さきのてらまのみささぎ)です。

原文

此天皇御年、壹佰伍拾參歲。御陵在菅原之御立野中也。又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部。此后者、葬狹木之寺間陵也。

簡単な解説

菅原の御立野

宝来山古墳が、菅原伏見東陵として垂仁天皇陵に治定されていますが、本当の被葬者は明らかになっていません。

ですが、濠に浮かぶ小島を、垂仁天皇を慕った「田道間守命」の墳墓とするなら、それはそれでいいと思ってしまいますね。

狹木の寺間の陵

こちらも被葬者は定かではないのですが、佐紀陵山古墳を比婆須比賣命の御陵に治定しているようです。

 

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