10代崇神天皇①|后妃と皇子女

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后妃と皇子女

現代語

崇神天皇:御眞木入日子印惠命(ミマキイリヒコイニヱの命)は、大和の師木の水垣の宮(しきのみづかきのみや)に都を定めて、天下を治められました。

天皇が木國造(きのくにのみやつこ)の荒河刀辨(アラカハトベ)の娘の遠津年魚目目微比賣(トホツアユメマクハシヒメ)を娶って生まれた御子は、

  • 豐木入日子命(トヨキイリヒコの命)、
  • 豐鉏入日賣命(トヨスキイリヒメの命)

のお二人です。

尾張連(をはりのうらじ)の祖の意富阿麻比賣(オホアマヒメ)を娶って生まれた御子は、

  • 大入杵命(オホイリキの命)、
  • 八坂之入日子命(ヤサカノイリヒコの命)、
  • 沼名木之入日賣命(ヌナキノイリヒメの命)、
  • 十市之入日賣命(トヲチノイリヒメの命)

の四人でした。

大毘古命(オホビコの命)の娘の御眞津比賣命(ミマツヒメの命)を娶って生まれた御子は、

  • 伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリヒコイサチの命)
  • 伊邪能眞若命(イザノマワカの命)、
  • 國片比賣命(クニカタヒメの命)、
  • 千千都久和比賣命(チチツクワヒメの命)、
  • 伊賀比賣命(イガヒメの命)、
  • 倭日子命(ヤマトヒコの命)

の六人でした。

このとおり、天皇の御子は男七人、女五人の合計十二人です。

原文

御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女刀辨二字以音遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。又娶尾張連之祖・意富阿麻比賣、生御子、大入杵命、次八坂之入日子命、次沼名木之入日賣命、次十市之入日賣命。四柱。又娶大毘古命之女・御眞津比賣命、生御子、伊玖米入日子伊沙知命伊玖米伊沙知六字以音、次伊邪能眞若命自伊至能以音、次國片比賣命、次千千都久和三字以音比賣命、次伊賀比賣命、次倭日子命。六柱。此天皇之御子等、幷十二柱。男王七、女王五也。

簡単な解説

師木の水垣の宮(しきのみづかきのみや)

大神神社の南400mの山麓に鎮座する志貴御県坐神社(シキノミアガタイマスジンジャ)の社地が水垣の宮跡とのことです。奈良県桜井市金屋になります。

この志貴御県の首長である磯城県主は、日本書紀の一説には、神武東征の「宇陀の戦い」で貢献した弟磯城(古事記の弟宇迦志)ではないかと言われてます。

豐鉏入日賣命(トヨスキイリヒメの命)

日本書紀によると、

疫病によって国が疲弊したとき、崇神天皇が宮中に天照大御神と倭大国魂神を祀っているのが良くないとして、宮中から出すことにしました。

その際、天照大御神の御杖代として各地を巡行したのが、このトヨスキイリヒメです。トヨスキイリヒメの巡行は、倭比売に引き継がれ、何十年とかかって、最終的に伊勢の地に落ち着くことになります。

大毘古命(オホビコの命)

8代孝元天皇の第1皇子です。このあと将軍として大活躍しますので、覚えておいてください。

 

主な皇子女

現代語

御眞津比賣命との御子である、伊久米伊理毘古伊佐知命が、次の天下を治められました。

第一子の豐木入日子命は

  • 上毛野君(かみつけののきみ)、
  • 下毛野君(しもつけののきみ)

らの祖となり、

その妹の豐鉏比賣命伊勢大神の宮(いせのおほかみのみや)にお仕えしお祀り申上げた人です。

大入杵命は能登臣(のとのおみ)の祖で、

倭日子命は、初めて陵墓に人垣を立てた人です。

原文

故、伊久米伊理毘古伊佐知命者、治天下也。次豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也。妹豐鉏比賣命者、拜祭伊勢大神之宮也。次大入杵命者、能登臣之祖也。次倭日子命。此王之時、始而於陵立人垣。

簡単な解説

伊勢大神の宮(いせのおほかみのみや)

前述の通り、天照大御神の宮を指しますが、現時点では伊勢ではないです。宮中を出て、最初に落ち着いた倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)のことでしょうか。

この倭笠縫邑の候補地として最有力なのが、志貴御県坐神社(水垣の宮)から三輪山に沿って北へ2kmほどのところに鎮座する檜原神社です。

こちらの神社には社殿はなく、三つ鳥居越しに三輪山を礼拝する形をとっています。

人垣

殉死のことを指します。一説には大王の墳墓の回りを守るように、生きながら埋められたとも。

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