10代崇神天皇②|大物主神の祟りと三輪伝説

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三輪の大物主

現代語

天皇の御世に、疫病が大流行し、人民のほとんどが死に国が絶えそうになりました。

天皇はこの国難を憂慮して神を祀ってお休みになられた夜に、大物主大神が夢に現れられておっしゃるには、

「このように病が蔓延するは、我が心である。意富多多泥古(オホタタネコ)をもって我を祀らしむるならば、神の祟りは鎮まり、国も平和になるであろうぞ。」

そこで天皇が急使を国中に出して意富多多泥古を探させたところ、河内の美努村(みのむら)で見つかったので、宮廷に参上させました。

天皇は意富多多泥古に尋ねます。

「お前は誰の子であるか。」

意富多多泥古は

大物主大神が陶津耳命(スヱツミミの命)の娘の活玉依毘賣(イクタマヨリビメ)を娶って生まれた御子が櫛御方命(クシミカタの命)であり、その子が飯肩巢見命(イヒカタスミの命)、その子が建甕槌命(タケミカヅチの命)、その子が私め意富多多泥古でございます。」

「おお!そなたが大物主神の子孫とな!これで天下は平和になり、民は再び栄えるであろう!」

天皇は大変お喜びになりました。

そこで、意富多多泥古命を神主として、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(オホミワノ大神)を奉りました。

また、伊迦賀色許男命(イカガシコヲの命)に命じて、沢山の皿を作らせ、天神地祇(あまつかみくにつかみ)の社(やしろ)を定めて、お祀り申し上げました。

また、宇陀の墨坂の神に赤色の楯と矛をお供えし、大坂の神に黒色の楯と矛をお供えして、お祀りした。また、坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、すべての神々に、もれなく、幣帛を奉納しました。すると、疫病は鎮まり、国は平安となったのです。

原文

此天皇之御世、伇病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以、驛使班于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河內之美努村、見得其人貢進。

爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」白。於是天皇大歡以詔之「天下平、人民榮。」卽以意富多多泥古命、爲神主而、於御諸山、拜祭意富美和之大神前。又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶此三字以音也定奉天神地祇之社。又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭黑色楯矛、又於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而伇氣悉息、國家安平也。

簡単な解説

意富多多泥古

日本書紀では太田田根子と書き、大物主神の子とされています。大神神社の摂社「大直禰子神社」の祭神です。

美努村

古事記では「河内の美努村」で、日本書紀では「茅渟の陶邑」で太田田根子を得たと記載されています。

前者は八尾市の御野縣主神社あたりではないかといわれ、後者は堺市の陶荒田神社あたりを指すようです。

この2か所のどっちでしょう。

茅渟と呼ばれる現在の泉州地域は、崇神天皇の御代では、まだ和泉国と河内国に分割される前でしたので、河内国だったのです。

古事記も、「河内国の茅渟の美努村」といいたかったのでしょう。

というわけで、堺市に軍配が上がりました。

伊迦賀色許男命

饒速日尊の子孫で、宇麻志麻治命の5世孫。物部氏の祖となる人です。この人の系統から物部守屋大連が出ます。

墨坂・大坂

墨坂の神は、宇陀市榛原の墨坂神社に祀られている神で、大坂の神は、香芝市逢坂の二上山の麓にある大坂山口神社に祀られている神です。

このように、古代大和の東西の玄関口にあたる場所なのです。

疫病は旅人によって街道から持ち込まれると考えられていましたから、この東西の入口の神を特に篤く祀ったのでしょう。

 

三輪神伝説

現代語

意富多多泥古が神の子であると知ったのは、次のような次第です。

 

先に述べました活玉依毘賣は、とても美しい姫でした。

そしてまたここに、容姿端麗な若者がいました。

その若者は、毎晩どこからともなくスッと、活玉依毘賣の部屋に現れ、二人は互いに好きになり、夜を共に過ごすようになりました。

そんなことですから、もちろんのこと娘は身籠ります。

娘の父母は妊娠を怪しんで、娘に聞きました。

「おまえは夫もいないのに、どうして身篭ったのだ?」

「名前はわかりませんが、立派な若者が毎夜スッと現れて、一緒に過ごすうちに自然に身篭りました。」

そこで、父母はその若者の正体を知りたいと思い、娘に教えました。

「赤土を寝床の前に撒いて、糸巻に巻いた麻糸の先を通した針を、若者の着物に刺しておきなさい。」

そのとおりにして、翌朝見てみると、針に刺した麻糸は、戸の鍵穴を通りぬけており、糸巻に残った麻糸は三輪(三巻き)でした。

その鍵穴を通った麻糸を辿っていくと、三輪山の神の社で留まりました。

このため、娘の子はその神の子と知ったのです。また、麻糸が三輪残っていたので、その地を美和(みわ)というのです。

この意富多多泥古命は神君(みわのきみ)鴨君(かものきみ)の祖となりました。

原文

此謂意富多多泥古人、所以知神子者、上所云活玉依毘賣、其容姿端正。於是有神壯夫、其形姿威儀、於時無比、夜半之時、儵忽到來。故相感共婚共住之間、未經幾時、其美人妊身。爾父母恠其妊身之事、問其女曰「汝者自妊。无夫何由妊身乎。」答曰「有麗美壯夫、不知其姓名、毎夕到來、共住之間、自然懷妊。」

是以其父母、欲知其人、誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖。

簡単な解説

神君(みわのきみ)

大三輪氏(大神氏)、三輪氏とも。現在の天理市の南部から桜井市の北西部を治めた氏族です。

飛鳥時代の豪族の中では最高位に位置づけられた有力氏族で、それは、大海人皇子(天武天皇)が起こした壬申の乱において、大海人皇子軍に味方し、その功績が大きかったことによるらしいですよ。

鴨君(かものきみ)

元々は三輪氏でしたが、太田田根子の孫の大鴨積命が、鴨の地に事代主を祀った神社(鴨都波神社)を建てたことから、鴨君の姓を賜与されたことから始まります。

のちに壬申の乱において、こちらも同じく大きな功績を残したことから、朝臣の姓をたまわりました。

平安時代には陰陽道の大家として活躍。弟子の安倍晴明を輩出しています。

一般的に、京都の上賀茂・下鴨でお馴染みの賀茂氏とは別系統とされていますが、葛城鴨氏が移動して山城賀茂氏になったという説もあります。

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