10代崇神天皇④|反乱軍の平定と知初國之御眞木天皇

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反乱軍の平定

現代語

川を挟んで、両軍が対峙。睨みあいが続きます。

日子國夫玖命が叫びました。

「まず、お前らの方から先に清め矢を射るがよい!」

そこで、建波爾安王が矢を放ちましたが、当たりませんでした。

次に、國夫玖命が矢を放ちました。その矢は、見事に建波爾安王に命中。

大将が死んだことにより建波爾安王軍は総崩れ。逃げ散っていきます。

大毘古命軍が逃げ惑う兵たちを追いかけ追いかけ、久須婆の渡(くすばのわたり)まで追い詰めたときに、敗軍の兵たちは恐怖極まり屎をしてしまいましたので、その屎が袴にかかりました。

そこで、この地は屎褌(くそばかま)と呼ばれ、今は久須婆(くすば)といいます。

また、逃げる兵たちを待ち受けて切り殺すと、鵜のように川を浮かんで流れていきました。そこで、この河を鵜河とも呼ばれました。

また、敗軍の兵を斬り屠った所を、波布理曾能(はふりその)といいます。

このようにして、大毘古命は敵軍を平定し終わって、朝廷に参上し天皇に報告申し上げました。

原文

爾日子國夫玖命乞云「其廂人、先忌矢可彈。」爾其建波爾安王、雖射不得中。於是、國夫玖命彈矢者、卽射建波爾安王而死。故其軍悉破而逃散。爾追迫其逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌、故號其地謂屎褌。今者謂久須婆。又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能。自波下五字以音。如此平訖、參上覆奏。

簡単な解説

久須婆の渡(くすばのわたり)

なんとも切ない地名ですね。

木津川は宇治川や桂川と巨椋池で合流し、巨椋池から淀川が流れ出ます。その淀川の沿岸部に樟葉(くずは)という地名があります。そこは枚方市です。

木津市から枚方市は、かなり離れていますよね。

波布理曾能(はふりその)

こちらも得も言われぬ地名です。現在の祝園(ほうその)で祝園神社が鎮座しています。祝園神社のお祭り「いごもり祭」は、建波爾安王の鎮魂の祭とされています。

 

知初國之御眞木天皇

現代語

大毘古命は、先の命令に従い、高志國(越の国:北陸)に向かいました。既に東海道に派遣されていた建沼河別と、父の大毘古命が合流した所を、相津(あひづ)といいます。

こうして、各方面に派遣された者は、それぞれ担当地域を平定し、天皇にその旨を報告申し上げました。

こうして、天下が平定され、人民は富み栄えましたので、ここに初めて、男には弓矢で得た獲物を、女には手芸品を、調」として徴収することにしました。

このようなことから、この御世を讃えて、崇神天皇を、知初國之御眞木天皇(はつくにしらしし みまきの すめらみこと)と申し上げるのです。

また、依網池(よさみのいけ)をつくり、輕之酒折池(かるのさかをりのいけ)を作ったのも、この御世です。

天皇は168歳、戊寅年十二月でお亡くなりになり、御陵は山邊の道の勾の岡の上にあります。

原文

故、大毘古命者、隨先命而、罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共、往遇于相津、故其地謂相津也。是以各和平所遣之國政而覆奏。爾天下太平、人民富榮。於是、初令貢男弓端之調、女手末之調。故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也。又是之御世、作依網池、亦作輕之酒折池也。天皇御歲、壹佰陸拾捌歲。戊寅年十二月崩。御陵在山邊道勾之岡上也。

簡単な解説

調(ちょう)

崇神天皇は、男には弓弭調 (ゆはずのみつぎ) 、女には手末調 (たなすえのみつぎ) を課して、徴税による国の財政制度を確立した、最初の天皇です。

知初國之御眞木天皇

「はつくにしらしし」=「初めて国を統治した」というような意味です。

前述の、将軍派遣による勢力範囲の拡大、調による財政制度の確立、依網池や輕之酒折池の造営による農地改革、天神地祇の国家祭祀などによって、

ヤマト朝廷を小国の集合体の親分的存在から、一歩抜きんでた存在に高めた功績を評価して、この称号が贈られたのでしょう。

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