32代崇峻天皇

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崇峻天皇の宮・后妃皇子女

現代語

橘豐日命の弟の長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)が倉椅柴垣宮(くらはしのしばかきのみや)に都を定めて、天下を治められたのは4年です。

天皇は壬子年十一月十三日に崩御されました。御陵は倉椅岡上(くらはしのおかのうえ)にあります。

原文

弟 長谷部若雀天皇 坐倉椅柴垣宮 治天下肆歲 壬子年十一月十三日崩也 御陵在倉椅岡上也

簡単な解説

とんでもなく簡単な記述だけで終わる崇峻天皇紀。

日本書紀によると、、、

崇峻天皇は、献上された猪の目に刀を突き刺して、

「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」

とおっしゃいました。

これを聞いた蘇我馬子は、天皇が自分を嫌っていると感じ、部下に暗殺を命じました。

と、記述されています。

臣下が天皇を殺害するという事態は、これが最初で最後です。

倉椅柴垣宮(くらはしのしばかきのみや)

はっきりした伝承地は残っていないようですが、倉梯岡陵の川向としておきましょう。

倉椅岡上(くらはしのおかのうえ)の御陵

宮内庁は、奈良県桜井市大字倉橋にある円墳を倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定していますが、

最近では、倉橋溜池を挟んだ反対側にある大型方墳の「赤坂天王山古墳」が崇峻天皇陵だとする説が有力になっているようです。

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