日本書紀|第二十七代 安閑天皇①|皇妃と皇子女、後宮乱入事件

勾大兄廣國押武金日天皇
(まがりのおほえのひろくにおしたけかなひのすめらみこと)
第二十七代 安閑(あんかん)天皇

 

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目次

天皇の人となり

勾大兄広国押武金日天皇まがりのおおえひろくにおしたけかなひのすめらみことは、継体天皇けいたいてんのうの長子で、母は 目子媛めのこひめ とおっしゃいます。

この天皇の人となりは、底知れないほどに器が大きく、猛々しくも寛大で、人君の器がおありでした。

継体二十五年(531年)

春二月七日、継体天皇けいたいてんのうは大兄皇子を立てて天皇とされ、その日に継体天皇は崩御なさいました。「1」

この月、大伴大連金村おおとものおおむらじかなむら大連おおむらじとし、物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじ大連だいれんとしました。これは今までの通りでした。

 原 文

勾大兄廣國押武金日天皇、男大迹天皇長子也、母曰目子媛。是天皇、爲人、墻宇㠜峻不可得窺、桓々寛大有人君之量。

廿五年春二月辛丑朔丁未、男大迹天皇立大兄爲天皇、卽日男大迹天皇崩。是月、以大伴金村大連爲大連、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。

 

皇后と妃

安閑元年 甲寅きのえのとら 534年

春一月、都を大倭国やまとのくに の 勾金橋まがりのかなはし 「2」に遷しました。これに因んで宮の名としました。

三月六日、役人は天皇のために、仁賢天皇にんけんてんのうの娘の 春日山田皇女かすがのやまだのひめみこ に納采して、皇后として迎えました。またの名を山田赤見皇女やまだのあかみのひめみこといいます。

別に三人の妃を立てました。

  • 許勢男人こせのおひと大臣の娘、妙手媛さてひめ
  • 紗手媛の妹、香香有嫒かかりひめ
  • 物部木蓮子もののべのいたび大連の娘、宅媛やかひめ

の三人です。

 原 文

元年春正月、遷都于大倭國勾金橋、因爲宮號。三月癸未朔戊子、有司、爲天皇納采億計天皇女春日山田皇女、爲皇后。更名山田赤見皇女。別立三妃、立許勢男人大臣女紗手媛、紗手媛弟香々有媛、物部木蓮子 木蓮子、此云伊陀寐 大蓮女宅媛。

 

後宮乱入事件

(安閑元年)

夏四月一日、内膳卿膳臣大麻呂かしわでのつかさのきみかしわでのおみおおまろが勅命を承って使者を遣わし、真珠を伊甚いじみで探し求めました。

伊甚いじみ国造くにのみやつこらは、都に詣でるのが遅く、期限を越えても献上しませんでした。

膳臣大麻呂かしわでのおみおおまろは大変怒って、国造くにのみやつこらを捕え縛って、その理由を詰問しました。

国造くにのみやつこ稚子直わくごのあたいらは恐れかしこまって、後宮の寝殿に逃げ隠れました。

春日かすが皇后は、あたいが入ってきていることを知らず、驚き慌てて倒れてしまわれました。そしてとても恥かしく思われました。

稚子直わくごのあたいらは、闌入罪が加わり、罪科が重たくなったので、謹んで、皇后のために、伊甚いじみの屯倉「3」を献上し、闌入の罪をあがなう請願をしました。それによって伊甚屯倉が定められました。

今、これを分けて、こおりとして上総国に属しています。

 原 文

夏四月癸丑朔、內膳卿膳臣大麻呂奉勅、遣使求珠伊甚。伊甚國造等、詣京遲晩、踰時不進。膳臣大麻呂大怒、收縛國造等、推問所由。國造稚子直等恐懼、逃匿後宮內寢。春日皇后、不知直入、驚駭而顚、慚愧無已。稚子直等、兼坐闌入罪當科重、謹專爲皇后獻伊甚屯倉、請贖闌入之罪。因定伊甚屯倉、今分爲郡、屬上總國。

ひとことメモ

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継体天皇の崩御について

継体天皇は安閑天皇に譲位したその日に崩御しました。

安閑天皇は、立太子の記述はなかったですが、すでに「春宮(皇太子の宮殿)を任せる」という記述があるので、継体から安閑への譲位については自然なことのように思えますが、譲位のその日に崩御というのは不自然極まりないですよね。

これは自死か殺されたか、、、

反乱によって殺されたとなれば皇太子・皇子すべてが殺されるのが常ですよね。しかし安閑天皇は生きてます。

ならば自死か、、、

さて、継体天皇記の天皇崩御年の別伝として記されている部分をもう一度。

ある本によると、天皇は即位二十八年に崩御としている。それをここで二十五年に崩御としたのは、百済本記によって記したから。

百済本記では、
「太歲辛亥三月に、進軍して安羅に至り、乞屯城こつとくのさしを造営した。この月、高麗はその王である安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子、皇子は、一緒に死んでしまった
これによって、 辛亥の歳すなわち、継体25年を崩御年とした。 後に勘校した者がこれを知ったのである。

なんと、百済では天皇と皇太子と皇子が一緒に崩御したと伝わっているという衝撃的な記述があるのです。

では、百済本記の記述を信用したとして、日本書紀の「天皇が譲位したその日に死亡した」と、百済本記の「天皇と皇太子と皇子が一緒に崩御した」と、でも「安閑天皇は生きている」の整合性を取ってみましょう。

大兄皇子は皇太子ではなかった?

その場合、「皇太子は別にいた」、すなわち「大兄皇子(安閑天皇)は皇太子ではなかった」と考えれば、整合性が取れますよね。

実際、「春宮を任せる」とか、勾大兄を誉めそやす言葉が散りばめれれてはいましたが、「勾大兄を立てて皇太子とする」というような明確な立太子の記述はないのです。だから、勾大兄が皇太子ではなかった可能性はあるのです。

むしろ、皇太子ではない皇子が天皇に即位したことをごまかすための美辞麗句が並べられていたという印象すら受けます。

では、皇太子は誰だったのか、、、

継体天皇の皇子を、古事記に登場する順番に並べて、母親の出自を記載しますと、、、

  • 大郎皇子(越前の三尾氏)
  • 勾大兄皇子(尾張氏)
  • 桧隈高田皇子(尾張氏)
  • 天国排開広庭尊(仁賢天皇の皇女)
  • 椀子皇子(近江の三尾氏)→三国公の祖
  • 耳皇子(近江の三尾氏)
  • 厚皇子(和珥氏)
  • 兎皇子(近江?の根氏)→酒人公の祖
  • 中皇子(近江?の根氏)→坂田公の祖

この順番が生まれた順番と考えてみましょう。

皇后の子の天国排開広庭尊が幼少だったということなので、天国排開広庭尊よりも年長者が皇太子候補となります。

大兄皇子と高田皇子が、それぞれ次々と天皇に即位したのだから、ここで殺されてはいません。すなわち皇太子ではなかったと言えます。

となれば、大郎皇子が真の皇太子だったのではないかと考えることができます。

ですので、

  • 継体天皇と大郎皇太子と、おそらくは耳皇子が一緒に殺された

もしくは、

  • 大郎皇太子と耳皇子を殺してから天皇に譲位を迫った、だから天皇は自死した

とも想像できます。

では、いったい誰が?なんのために?

誰が策略したのでしょう。おそらくは尾張連と手白髪媛なんだろうと思います。

聖帝と称された仁徳天皇の男系は武烈天皇で途切れました。しかし仁賢天皇の皇女が健在でした。

仁徳天皇の血統を繋ぐため、継体天皇を応神天皇の男系として(どうだったか)呼び出して天皇とし、本流の手白髪媛が皇后となり子をもうけました。(もしかしたら手白髪媛が天皇だったのかもしれないです。)

これはあくまでも、仁賢天皇の血統を繋ぐための措置でした。

しかし継体天皇は、出身地の越前・近江系に皇位を継がせようとしたのでしょう。

なので、それを阻止するために手白髪媛皇后が尾張連を使って、越前・近江系を一掃したのではないかというのが、私の想像です。

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勾金橋宮

奈良県橿原市曲川に金橋神社という安閑天皇を祀る神社があります。ここが、勾金橋宮の跡だといわれています。

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伊甚いじみ屯倉

伊甚いじみ屯倉は、千葉県の夷隅郡・いすみ市・勝浦市あたりを中心とした屯倉。外房の中部ですね。

この屯倉が分かれて郡となったといいますから、少なくとも2つの郡にまたがる広大な屯倉だったことが想像できます。

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