日本書紀|第二十七代 安閑天皇②|三妃の屯倉、竹村屯倉、狭井田屯倉

勾大兄廣國押武金日天皇
(まがりのおほえのひろくにおしたけかなひのすめらみこと)
第二十七代 安閑(あんかん)天皇

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目次

百済の朝貢

(安閑元年)

五月、百済くだら下部脩徳かほうしゅうとく 「4」嫡徳孫ちゃくとくそん上部都徳しょうほうととく の 己州己婁こつこるらを遣わして、貢物を献上し、別に上表文も献上しました。

 原 文

五月、百濟遣下部脩德嫡德孫・上部都德己州己婁等、來貢常調、別上表。

 

大河内直味張のウソ

(安閑元年)

秋七月一日、みことのりして、

「皇后は天皇と同じ身分だと言えども、内と外では名声に隔たりがある。それで屯倉みやけの地を充てて、皇后の宮殿を建て、後の世に跡を残すことにする」

とおっしゃいいました。

さっそく勅使ちょくしを遣わして良田を選ばせました。

勅使は勅を受けて、大河内直味張おおしこうちのあたいあじはり  「5」亦の名を黒梭くろひという に、

「今、お前は肥えた雌雉田を献上しなさい」

と言いました。

味張は急にもったいなくなって、勅使をだまして、

「この田は日照りになると水を引くことが難しく、溢水があると水浸しになります。苦労は甚だ多く、収穫は甚だ少ないのです」

と言いました。勅使はその言葉のまま、隠さず復命しました。

 原 文

秋七月辛巳朔、詔曰「皇后、雖體同天子而內外之名殊隔。亦可以充屯倉之地、式樹椒庭、後代遺迹。」逎差勅使、簡擇良田。

勅使奉勅、宣於大河內直味張 更名黑梭 曰「今汝、宜奉進膏腴雌雉田。」味張、忽然悋惜、欺誑勅使曰「此田者、天旱難漑、水潦易浸。費功極多、收獲甚少。」勅使依言、服命無隱。

 

三人の妃にも屯倉を

(安閑元年)

冬十月十五日、天皇は大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらに勅して、

「朕は四人の妻を召し入れてたが、今に至るまで嗣子がない。万世の後に、朕の名は絶えてしまうのだろう。大伴の伯父おきなよ。今、何かできることはないか。このことを思うと、いつも憂うつなのだ」

とおっしゃいました。

大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらは、

「私めも憂いている所でございます。我が国家の天下に王であれば、嗣子の有る無しにかかわらず、名を残すための物が必要です。願わくば、皇后や次妃のために、屯倉の地をたてて後世に残し、その跡を明らかにしましょう」

と申し上げました。

天皇はみことのりをして、

「ゆるす。速やかに設けよ」

と、おっしゃいました。

大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらが奏上して、

小墾田の屯倉おはりだのみやけと国毎の田部たべを、紗手媛さてひめにお与えになり、

桜井の屯倉さくらいのみやけと国毎の田部たべを、香香有媛かかりひめにお与えになり、

難波の屯倉なにわのみやけと郡毎にいる 钁丁くわよぼろ を、宅媛やかひめにお与えになりますように。

これらをもって後世に示して昔を忘れさせないようにしましょう」「6」

と申し上げました。

天皇はみことのりして、

「申した通りに施行せよ」

と、おっしゃいました。

 原 文

十月庚戌朔甲子、天皇勅大伴大連金村曰「朕、納四妻、至今無嗣、萬歲之後朕名絶矣。大伴伯父、今作何計。毎念於茲、憂慮何已。」

大伴大連金村奏曰「亦臣所憂也。夫我國家之王天下者、不論有嗣無嗣、要須因物爲名。請爲皇后次妃建立屯倉之地、使留後代令顯前迹。」詔曰「可矣。宜早安置。」

大伴大連金村奏稱「宜以小墾田屯倉與毎國田部給貺紗手媛、以櫻井屯倉 一本云「加貺茅渟山屯倉也。」與毎國田部給賜香々有媛、以難波屯倉與毎郡钁丁給貺宅媛。以示於後、式觀乎昔。」詔曰「依奏施行。」

 

三島県主飯粒が土地を献上

(安閑元年)

うるう十二月四日、三島みしま大阪府三島)に行幸されました。

大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらが従って行きました。

天皇は大伴大連を遣わして、県主あがたぬし飯粒いいぼに良田を献上するよう問いました。

飯粒いいぼは無限に喜び、慎み敬い誠心を尽しました。

そして、上御野かみのみの下御野しものみの上桑原かみのくわはら下桑原しものくわはら「7」を合わせて竹村の地といい、合計四十町を献上しました。

 原 文

閏十二月己卯朔壬午、行幸於三嶋、大伴大連金村從焉。天皇使大伴大連、問良田於縣主飯粒。縣主飯粒、慶悅無限、謹敬盡誠。仍奉獻上御野・下御野・上桑原・下桑原幷竹村之地凡合肆拾町。

 

大河内直味張への勅

大伴大連おおとものおおむらじみことのりを受け、

「天下に王封でないところはない、天下に王域でないところはない。それで前天皇は顕号を建て鴻名を垂れ、広大さは天地に並び、光華は日月のようであった。

遠くまで行き、民を愛撫し、都の外に出ては、国内を宝鏡のように照らし、その光は無限に満ちあふれていた。

上は天の最上まで届き、八方の隅々まで行き渡った。礼を制定して功が成ることを告げ、歌舞を作って政治が安定していることを明らかにした。福は応え誠は至り、 祥瑞は往年に符合した。

今、お前、味張よ。国土の微々たる百姓に過ぎないお前が、にわかに王地を惜しんで、使者の宣旨を軽々しくも背いた。味張よ、今後、郡司の役を預けることはない」

と告げました。

 原 文

大伴大連、奉勅宣曰「率土之下、莫匪王封。普天之上、莫匪王域。故先天皇、建顯號垂鴻名、廣大配乎乾坤、光華象乎日月、長駕遠撫、横逸乎都外、瑩鏡區域、充塞乎無垠、上冠九垓、旁濟八表、制禮以告成功、作樂以彰治定、福應允致、祥慶符合於往歲矣。今汝味張、率土幽微百姓、忽爾奉惜王地、輕背使乎宣旨。味張、自今以後、勿預郡司。」

 

大河内直味張の謝罪

県主飯粒あがたぬしのいいぼは、喜び畏まり心を通わせ、その子の鳥樹とりきを大連に奉って、少年従者としました。

大河内直味張おおしこうちのあたいあじはりは恐れ畏まり後悔して、地にひれ伏して冷汗を流しました。

そして大連おおむらじに、

「愚で無知な百姓の私は万死に罪に当ります。伏して願います。今後、郡毎こおりごと钁丁くわよろぼを春に五百人、秋に五百人、天皇に奉り、子孫も絶やすことなく続けます。これによって生を祈り、永久に戒めと致します」

と言いました。

また別に、河内の狭井田「8」六町を、大伴大連おおとものおおむらじに贈りました。

三島郡みしまのこおり竹村屯倉たかふのみやけには、河内県の部曲をもって田部たべとすることの始まりはこのことからです。

 原 文

於是、縣主飯粒、喜懼交懷、廼以其子鳥樹獻大連爲僮竪焉。於是、大河內直味張、恐畏永悔、伏地汗流、啓大連曰「愚蒙百姓、罪當萬死。伏願、毎郡、以钁丁春時五百丁・秋時五百丁奉獻天皇、子孫不絶。藉此祈生、永爲鑒戒。」別以狹井田六町賂大伴大連。蓋三嶋竹村屯倉者、以河內縣部曲爲田部之元於是乎起。

 

ひとことメモ

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下部脩徳・上部都徳

下部脩徳の嫡徳孫の意味は、百済の都城を5部に分けたうちの「下部」の「脩徳」という官職を持つ「嫡徳孫」という人を表しています。

上部都德の己州己婁も同じです。

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大河内氏

大河内氏は凡河内氏を指すと思われます。

凡河内氏は、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれたた天津彦根命の後裔とされ、凡河内国(摂津・河内・和泉)という広大なエリアを勢力下に持つ有力豪族だったようですよ。

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3つの屯倉の推定所在地

小墾田の屯倉おはりだのみやけ・・・大和国高市郡飛鳥。今の奈良県高市郡明日香村豊浦あたり。

桜井の屯倉さくらいのみやけ・・・河内国河内郡桜井郷。今の東大阪市池島町あたり。

難波の屯倉なにわのみやけ・・・摂津国西成郡讃楊郷。今の大阪市中央区の高津から生玉町にかけて。

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飯粒が献上した土地

下御野、下御野、上桑原、下桑原の場所は、、、

桑原・・・石河村に名称変更して、その石河村は安威村の北に接していたが、江戸時代には安威村に吸収されたようです。現在も茨木市桑原と言う地名がありますので、おそらくはそのあたりでしょう。

御野・・・2説あります。西成区三野郷説と島下郡耳原みのはら説です。西成区ではあまりにも遠く、三島県主が献上できるような土地ではなさそうです。一方、耳原みのはらなら三島県主の勢力範囲内だった可能性高く桑原にも近い。耳原説の方が分がありそうですね。

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狭井田

狭井田はどこにあったのでしょうか。はっきりしません。

大河内直ですから河内国にあると思いがちですが、どうも河内国ではないようです。

今の定説では、三輪山から流れ来る狭井川沿岸の桜井市大字茅原字佐江田だとしています。「さえた」が「さいた」に似てますしね。

ただ、大河内直が凡河内国造であったならば理解できなくもないですが「あたい」程度の氏族が大和に所領を持っていたのだろうか、、、という疑問は残ります。

この狭井田は、大伴氏への謝礼というか賄賂というか。大伴氏はこれで私領を増やしたということですね。

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