日本書紀|第二十七代 安閑天皇③|廬城部屯倉、横淳・橘花・多氷・倉樔の屯倉

勾大兄廣國押武金日天皇
(まがりのおほえのひろくにおしたけかなひのすめらみこと)
第二十七代 安閑(あんかん)天皇

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物部大連尾輿の珠が盗まれた

(安閑元年閏十二月)

この月、廬城部連枳莒喩いおきべのむらじきこゆの娘の幡媛はたひめが、物部大連尾輿もののべのおおむらじおこしたまの首飾りを盗み取り、春日かすが皇后に献上しました。

事が発覚すると、枳莒喩きこゆは娘の幡媛はたひめを宮中の采女丁うねめよほろとして献上し(これが春日部の釆女です)、合せて安芸国過戸あきのくにのあまるべ廬城部屯倉いおきべのみやけ「9」を献上し、娘の罪を償いました。

物部尾輿もののべのおこしは事の原因が自分に向くのを恐れて不安になり、大和国の十市部とおちべ、伊勢国の来狭々くささ登伊とい来狭々くささ登伊といは二つの邑の名前です)贄土師部にえのはじべや、筑紫国の胆狭山部いさやまべ「10」を献上しました。

 原 文

是月、廬城部連枳莒喩女幡媛、偸取物部大連尾輿瓔珞、獻春日皇后。事至發覺、枳莒喩以女幡媛獻采女丁是春日部采女也、幷獻安藝國過戸廬城部屯倉、以贖女罪。物部大連尾輿、恐事由己、不得自安、乃獻十市部、伊勢國來狹々・登伊來狹々・登伊、二邑名也贄土師部、筑紫國膽狹山部也。

 

武蔵国造を巡る争い

武蔵国造の笠原直かさはらのあたい使主おみと同族の小杵おき(使主も小杵も名です)とが、国造くにのみやつこの役職を争って、何年も決着しませんでした。

小杵おきは性格が激しく逆らい、高慢で従うことはなく、ひそかに上毛野小熊かみつけのおくまに援軍を求め、使主おみを殺そうと策謀しました。

使主おみはそれに気づいて逃げ出し、都に詣でて言上しました。

朝廷は臨断して、使主おみ国造くにのみやつことし、小杵おきを誅殺しました。

国造使主くにのみやつこおみは恐れ畏まり心通わせ黙っていられなくなり、謹んで国家のために横淳よこぬ橘花たちばな多氷おおひ倉樔くらすの四力所に屯倉みやけを設けて奉りました。「11」

この年、太歳甲寅たいさいきのえとら です。

 原 文

武藏國造笠原直使主與同族小杵、相爭國造 使主・小杵、皆名也、經年難決也。小杵、性阻有逆、心高無順、密就求授於上毛野君小熊而謀殺使主。使主、覺之走出、詣京言狀。朝庭臨斷、以使主爲國造而誅小杵。國造使主、悚憙交懷、不能默已、謹爲國家奉置横渟・橘花・多氷・倉樔四處屯倉。是年也、太歲甲寅。

ひとことメモ

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廬城部屯倉いおきべのみやけ

安芸国過部の廬城部屯倉いほきべのみやけとはどこでしょう。所説あります。

伊福郷いおきごう説・・・安芸国佐伯郡伊福郷。今の広島市安佐南区祇園あたり。「いおき」と「いふき」が似ているから。

多家神社説・・・屯倉みやけ大家おおやけ多家おおいえ。だから、廬城部屯倉は多家神社のある場所すなわち広島県安芸郡府中町にあった。という、何とも乱暴な説です。

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物部大連が所領の部民を献上

盗まれた被害者の物部大連までもが、天皇に部民を献上してます。しかも、私領を失ってでも献上しなければならない理由とは???

この献上は、罪を償うという意味ではなく、自分に災いが降りかからないようにというのが目的のようですが、現代人には理解できませんね。

想像するに、、、

盗んだ者には罪が、盗まれた者には穢れが付くという思想があったのかも知れません。よって、祭祀のトップである天皇に財を献上して穢れを祓ってもらう。そのような慣習が出来あがっていたのかも?

いずれにしても、大河内直味張の一件で大伴氏は私領を増やし、この一件で物部氏は私領を減らしました。

さて、ここに挙がった地名を簡単にご紹介しておきます。

大和国の十市とおち

現在の橿原市の北西隅にある十市町のこと。かつては「倭の六縣」の一つとして天皇家に農産物などを供給する天皇の直轄地でしたが、どうやら物部氏私有の部民となっていたということのようですね。

伊勢国の来狭々くささ登伊とい

伊勢国の来狭々や登伊の所在地については不明。贄土師部にえのはじべは、神前にお供えする食物をのせる土器を作る部民です。

摂津国能勢の久佐々くささ神社あたりは、雄略天皇が設置した贄土師部にえのはじべの居住地です。なので、この「くささ」繋がりから、両所には何らかの関係性があったのでは?と想像します。

雄略天皇は伊勢国の藤方にも贄土師部にえのはじべを設置したという記録がありますので、摂津能勢の贄土師部にえのはじべが伊勢国の藤方に移住して久佐々神を祀っていた時期があったのだろうか?とか、贄土師部にえのはじべは久佐々神を祀る習慣があったのだろうか?とか、、、

筑紫国の胆狭山部いさやまべ

現在の大分県中津市三光諌山いさやまあたりだとされてます。中津市街地から耶馬渓へ行く途中にあたります。

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横淳よこぬ橘花たちばな多氷おおひ倉樔くらす

これらの所在地について、、、

橘花たちばな

武蔵国橘樹たちばな橘樹たちばな郷、現在の川崎市北加瀬・日吉あたりを指すと考えられています。

倉樔くらす

橘樹たちばな郡の南に久良岐郡がありますので、倉樔くらすは久良岐のことかも知れません。久良岐郡は今の鶴見区で橘樹郡に接していました。

このように、橘花たちばな倉樔くらすが接していたのであれば、横淳よこぬ多氷おおひ も、近隣地域ではなかろうかと考えてたくなりますね。

多氷

多末か多米の誤記ではないかという説があります。多末・多米=多摩です。多磨郡は橘樹郡の北に接していました。

一般的には、あきる野市あたりにあったと言われています。私は府中かもしれないと密かに思ってます。

横淳よこぬ

横淳よこぬは、横見郡に比定されています。今の埼玉県比企郡吉見町あたりでしょうか。

他の3か所とは大きく離れていますが、笠原直かさはらのあたいの本拠である鴻巣市笠原の隣に位置しますから、あり得ると思います。

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