日本書紀|第二十七代 安閑天皇④|全国各地の屯倉、安閑天皇崩御

勾大兄廣國押武金日天皇
(まがりのおほえのひろくにおしたけかなひのすめらみこと)
第二十七代 安閑(あんかん)天皇

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目次

安閑天皇2年1月5日の詔

安閑2年 乙卯きのとのう 535年

二年春一月五日、みことのりして、

「このところ毎年穀物がよく捻って、境に接しているところにも憂いがない。元々蒼生は生業を楽しみ、業々黔首は飢餓を免れている。仁の風は宇宙に拡がり、美声は天地に充満した。内外は清らかに通じ、国家は賑わい富んでいる。朕、甚だ喜んでいる。大いに酒を飲み、五日間は天下の歓ぼう」

とおっしゃられました。

 原 文

二年春正月戊申朔壬子、詔曰「間者連年、登穀接境無虞。元々蒼生、樂於稼穡、業々黔首、兔於飢饉。仁風鬯乎宇宙、美聲塞乎乾。內外淸通、國家殷富。朕甚欣焉。可大酺五日爲天下之歡。」

 

屯倉の設置

(安閑2年)

夏四月一日、勾舍人部まがりのとねりべ勾靫部まがりのゆきべを設けました。

 

五月九日、筑紫ちくし穂波の屯倉ほなみのみやけ鎌屯倉かまのみやけ

豊国とよくに三崎屯倉みさきのみやけ桑原の屯倉くわはらのみやけ肝等の屯倉かとのみやけ大抜の屯倉おおぬくのみやけ我鹿の屯倉あかのみやけ

火国ひのくに春日部屯倉かすかべのみやけ

播磨国はりまのくに越部屯倉こしべのみやけ牛鹿屯倉うしかのみやけ

備後国びんごのくに後城屯倉しつきのみやけ多禰屯倉たねのみやけ来履屯倉くくつのみやけ葉稚屯倉はわかのみやけ河音屯倉かわとのみやけ

婀娜国あなのくに膽殖屯倉いにえのみやけ膽年部屯倉いとしべのみやけ

阿波国あわのくに春日部屯倉かすかべのみやけ

紀国きのくに経湍屯倉ふせのみやけ河辺屯倉かわべのみやけ

丹波国たんばのくに蘇斯岐屯倉そしきのみやけ

近江国おうみのくに葦浦屯倉あしうらのみやけ

尾張国おわりのくに間敷屯倉ましきのみやけ入鹿屯倉いるかのみやけ

上毛野国かみつけぬのくに緑野屯倉みどのみやけ

駿河国するがのくに稚贄屯倉わかにえのみやけを置きました。「12」

 

秋八月一日、みことのりして国々に犬養部いぬかいべを置きました。

九月三日、桜井田部連さくらいのたべのむらじ県犬養連あがたのいぬかいのむらじ難波吉士なにわのきしらにみことのりして、屯倉みやけの税を掌握させました。

十三日、また別に大連おおむらじみことのりして、

難波なにわ大隅島おおすみしま姫島ひめしま松原まつばらとに牛を放て。名を後の世に残したい」

とおっしゃいました。

 原 文

夏四月丁丑朔、置勾舍人部・勾靫部。

五月丙午朔甲寅、置筑紫穗波屯倉・鎌屯倉・豐國滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉取音讀・大拔屯倉・我鹿屯倉我鹿、此云阿柯・火國春日部屯倉・播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉・備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉・婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉・阿波國春日部屯倉・紀國經湍屯倉經湍、此云俯世・河邊屯倉・丹波國蘇斯岐屯倉皆取音・近江國葦浦屯倉・尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉・上毛野國緑野屯倉・駿河國稚贄屯倉。

秋八月乙亥朔、詔置國々犬養部。九月甲辰朔丙午、詔櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等、主掌屯倉之税。丙辰、別勅大連云「宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原。冀垂名於後。」

安閑天皇の崩御

(安閑2年)

冬十二月十七日、天皇は勾の金橋宮まがりのかなはしのみやで崩御されました。享年七十歳でした。

この月、天皇を河内かわち古市高屋丘陵ふるいちのたかやのおかのみささぎ「13」に葬りました。皇后の春日山田皇女かすがのやまだのひめみこと、天皇の妹の神前皇女かんさきのひめみこ合わせてこの陵に埋葬しました「14」

 原 文

冬十二月癸酉朔己丑、天皇崩于勾金橋宮、時年七十。是月、葬天皇于河內舊市高屋丘陵。以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女、合葬于是陵。

ひとことメモ

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たくさんの屯倉

たくさんの屯倉が5月3日に設置されたように記されていますが、まあ一斉に設置されたわけではないでしょうね。

とはいえ、安閑天皇の御代に何故こんなにたくさんの屯倉が???

武烈天皇が崩御したのち、国内は乱れました。九州北部で勃発した「磐井の乱」はその象徴でしょう。

それ以降、天皇は朝鮮半島の経営よりも国内経営に力を注いだと思われます。

以下、屯倉の所在地と設置のねらいを列記します。

 

●筑紫国  

  • 穗波ほなみ屯倉(福岡県飯塚市筑穂あたりか 旧穂波ほなみ郡)
  • かま屯倉(福岡県飯塚市綱分 旧嘉麻かま郡)

●豊国 

  • 滕碕みさき屯倉(福岡県北九州市門司区)
  • 桑原くわはら屯倉(福岡県田川郡大任町今任原)
  • 肝等かとの屯倉(福岡県京都郡苅田町新津)
  • 大拔おおぬく屯倉(福岡県北九州市小倉南区下貫)
  • 我鹿アカ屯倉(福岡県田川郡赤村)

これら、北九州の屯倉の多くは磐井の勢力下にあった地域で、瀬戸内海から筑紫への陸路の要衝です。

天皇の直接支配に切り替えて、生産拠点兼監視拠点としたといわれています。

●火国 

  • 春日部かすかべ屯倉(熊本県熊本市東区長嶺)

春日部という名称からして、伊甚いじみ屯倉と同じく、春日皇后の御名代として設置された屯倉のうちの一つだと考えられます。

このあたりは、平坦な土地が広いので大規模な屯倉だったと想像できます。広いので耕作要員も多かったでしょう。

この耕作要員は戦闘要員となり得ます。すなわちこの屯倉は南九州の熊襲勢力への抑えとなっていたと考えられます。

●播磨国 

  • 越部こしべ屯倉(兵庫県たつの市神宮町越部)
  • 牛鹿うしか屯倉(兵庫県姫路市四郷町?)

●備後国 

  • 後城しつき屯倉(岡山県井原市井原野?)
  • 多禰たね屯倉(岡山県井原市芳井町たね/広島県福山市新市町つね
  • 来履くつつ屯倉(岡山県井原市下出部町)
  • 葉稚はわか屯倉(岡山県井原市大江町)
  • 河音かわと屯倉(岡山県井原市西江原町)

婀娜あな国 

  • 胆殖いにえ屯倉(広島県福山市神辺町下御領)
  • 胆年部いとしべ屯倉(広島県福山市千田町)

これら兵庫、岡山、広島の屯倉は、まだまだ油断のならない吉備氏勢力を牽制する意味合いがあったと想像します。

また、少し内陸部に入った多禰たね屯倉は、吉備氏と出雲との連携を牽制する狙いがあったとでは?ともいわれています。

●阿波国 

  • 春日部かすが屯倉(徳島県阿南市は野浦町宮倉)

こちらも、火国の春日部屯倉と同じく、春日部という名称からして、春日皇后の御名代として設置された屯倉のうちの一つで、規模の大きなものだったと思われます。

阿波および四国全体の抑えとして、また南海道の拠点として機能していたと思われます。

●紀伊国 

  • 経湍ふせ屯倉(和歌山県和歌山市布施屋)
  • 河辺かわべ屯倉(和歌山県和歌山市河辺)

紀の川を挟んで向かい合う位置に並ぶ2つの屯倉。この状況から見ても、この場所はかなり重要な場所っぽいですね。

紀伊国と和泉国を結ぶ陸路である雄ノ山峠越えの起点となる場所で、なおかつ、紀伊国と大和国を結ぶ水路である紀の川の乗降港だったそうです。

水路と陸路のジョイント地点となる立地なんですね。

そこに屯倉を設置する意味はというと、紀氏勢力の抑えであることは言うまでもないでしょう。

●丹後国 

  • 蘇斯岐そしき屯倉(京都府亀岡市三宅町)

亀岡市の三宅町は、山陰道が畿内へ入る手前という立地です。出雲などの山陰勢力に対する前線防御施設の意味合いがあったと想像します。

●近江国 

  • 葦浦あしうら屯倉(滋賀県草津市芦浦町)

東山道(陸路)と琵琶湖(水路)の両方を監視できる立地のようです。継体天皇の出身地である越前や、親戚筋の湖北勢力への抑えという意味合いがあったように思えます。

●尾張国 

  • 間敷ましき屯倉(愛知県稲沢市平和町下三宅郷内)
  • 入鹿いるか屯倉(愛知県犬山市入鹿)

間敷ましき屯倉の近くに古代東海道の尾張国と伊勢国を繋ぐ港「馬津駅」がありますので、尾張国の海路の玄関ともいえる立地に屯倉を置いたということですね。

入鹿いるか屯倉は、東山道が山道に入る入口あたりを抑える立地です。

●上毛野国 

  • 緑野みどの屯倉(群馬県藤岡市緑埜)

入鹿屯倉とは逆に、東山道が山道から出てくる出口を抑える立地となります。

入鹿屯倉と緑野屯倉で、東山道の出入り口を監視する機能を持ったということになりますね。

●駿河国 

  • 稚贄屯わかにえ倉(静岡県富士市鈴川あたり)

大和から伊勢国へ陸路を進み、伊勢から出航した船が伊豆半島を回り込む前に寄港する拠点だったと思われます。

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河内古市高屋丘陵

羽曳野市古市にある高屋築山古墳が、安閑天皇陵に治定されています。

日本武尊の白鳥陵の南東にあり、古市古墳群の最南にあたります。

綺麗な前方後円形ではなく、少しひしゃげたような形になっているのは、中世に畠山氏が城として改築したかららしいです。バチが当たりそうですね。

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春日山田皇女と神前皇女

春日山田皇女は安閑天皇の皇后で、神前皇女は安閑天皇の異母妹。

「この二人も合わせて埋葬した」と書かれてます。同時に亡くなったのかどうかはわかりませんが、、、

継体天皇紀の最後に、

「継体天皇、皇后、皇子が同時に亡くなり埋葬されたと百済記に記されている」

という注釈が記されていて、これをもって、「継体天皇は暗殺されたのでは?」と推察する説があります。

また他にも、その百済記の記述は、安閑天皇の崩御を伝えたものだと言う説もあります。

安閑天皇も同じように皇位継承争いで暗殺されたのかもしれませんね。

 

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