日本書紀|第二十代 安康天皇②|大草香皇子を誅殺し、その妃を娶る

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大泊瀬皇子おおはつせのみこの次の相手探しは幡梭皇女はたびのひめみこ

安康元年 甲午きのえのうま 454

二月一日 天皇は大泊瀬皇子のために、大草香皇子おほくさかのみこの妹の幡梭皇女はたびのひめみこを妻にと思われました。

そこで、坂本臣さかもとのおみの祖の根使主ねのおみを使いとして遣わし、大草香皇子おほくさかのみこにお願いして

「願わくば幡梭皇女はたびのひめみこを頂戴して、大泊瀬皇子おおはつせのみこに娶せたいと思うのですが」

と言いました。それに対して大草香皇子おほくさかのみこは、

「私はこの頃、重い病を患いまして、もう治ることはないでしょう。荷物を積んだ船が潮待ちしているようなもので、死などは寿命がきたということです。何を惜しむに足りましょうや。

ただ、妹の幡梭皇女はたびのひめみこが一人切りになってしまうので、そう易々とは死ねないのですよ。

今、陛下が妹の醜いことを嫌がらずに荇菜おみなの数に入れていただけるなんて、とても大きな恩恵です。何でそんなかたじけない仰せをご辞退申し上げましょうや。

そこで、この丹心まごころをおしめしするために、私の宝である押木珠縵おしきのたまかずら ある話では、立縵(たちかずら)、別の話では、磐木縵(いはきのかずら)ともいう を、使者の根使主に渡して献上いたします。願わくば、こんな粗末なものですがお納めいただき、どうか約束の証としてください」

と申し上げました。

 原 文

元年春二月戊辰朔 天皇 爲大泊瀬皇子欲聘大草香皇子妹幡梭皇女 則遣坂本臣祖根使主 請於大草香皇子曰「願得幡梭皇女 以欲配大泊瀬皇子 」爰大草香皇子對言「僕頃患重病 不得愈 譬如物積船以待潮者 然死之命也 何足惜乎 但以妹幡梭皇女之孤 而不能易死耳 今陛下 不嫌其醜 將滿荇菜之數 是甚之大恩也 何辭命辱 故欲呈丹心 捧私寶名押木珠縵 一云 立縵 又云 磐木縵 附所使臣根使主而敢奉獻 願物雖輕賤納爲信契 」

 ひとことメモ

大草香皇子おほくさかのみこ

大草香皇子おほくさかのみこは、仁徳天皇の末の第五皇子です。仁徳天皇の皇子は、履中・反正・允恭と3代続けて天皇に即位しました。

大草香皇子おほくさかのみこは、これらの天皇の兄弟ですから、皇位継承候補という見方をすると、この時の天皇である安康天皇の皇子の内の誰かとも同列だということです。

幡梭皇女はたびのひめみこ

大草香皇子おほくさかのみこの同母妹である幡梭皇女はたびのひめみこもまた、当然ながら仁徳天皇の皇女です。

おそらく当時の仁徳天皇は絶対的な存在だったと思います。すなわち、その皇女もなかなかに位の高い姫様だったと考えられます。

押木珠縵

押木珠縵は、冠でしょう。細かく彫刻が施された冠に珠があしらわれた、綺麗で豪華なものであったと想像します。

 

大草香皇子おほくさかのみこ、無実の罪で殺される

根使主は、押木珠縵の素晴らしさに感動して、これを盗んで自分の宝にしようと思い、

大草香皇子おほくさかのみこは勅命を受け入れずに、『同族といえども、どうして吾が妹を妻にできようか』とおっしゃられました」

と奏上しました。

天皇は、根使主の讒言ざんげんを信じ込み、激怒して、兵を起こして 大草香皇子おほくさかのみこの家を取り囲んで誅殺されました。

この時に、難波吉師日香蛟なにわのきしひかかは、父子ともに大草香皇子おほくさかのみこにお使えしていました。父子は、その君が罪無くして殺されたことを痛み、父は王の首を抱き、二人の子はそれぞれ王の足にとりすがり、

「吾君が罪無くして死なれた なんと悲しいことか。我等父子三人は、ご生前にお使えしていた身だ。死に殉じなければ臣とはいえない」

と言って、すぐにみずから首をはね、皇子の屍のそばで殉死しました。兵達はみな涙を流しました。

天皇は、大草香皇子おほくさかのみこの妻の中蒂姫なかしひめを宮中に入れて妃とされ、また幡梭皇女はたびのひめみこ大泊瀬皇子おおはつせのみこにあてがいました。

この年の太歳、甲午きのえのうまでした。

 原 文

於是 根使主 見押木珠縵 感其麗美 以爲盜爲己寶 則詐之奏天皇曰「大草香皇子者不奉命 乃謂臣曰『其雖同族 豈以吾妹 得爲妻耶 』」既而 留縵入己而不獻 於是 天皇信根使主之讒言 則大怒之 起兵 圍大草香皇子之家而殺之

是時 難波吉師日香蛟 父子並仕于大草香皇子 共傷其君无罪而死之 則父抱王頸 二子各執王足而唱曰「吾君 无罪以死之 悲乎 我父子三人生事之 死不殉是不臣矣 」卽自刎之 死於皇尸側 軍衆悉流涕 爰取大草香皇子之妻中蒂姬納于宮中因爲妃 復遂喚幡梭皇女配大泊瀬皇子 是年也 太歲甲午

 ひとことメモ

同族と言えども

大草香皇子おほくさかのみこが、『同族といえども、どうして吾が妹を妻にできようか』と言ったとあります。

前述の通り、大草香皇子おほくさかのみこは仁徳天皇の皇子で、本来なら允恭天皇いんぎょうてんのうの次の天皇に即位してもおかしくなかった身分です。その妹 幡梭皇女はたびのひめみこ も仁徳天皇の娘ですから、仁徳天皇との血の濃さはコチラの方が上。

それは安康天皇も認識していたでしょう。だから、「お前の弟ごときに嫁にやれるものか!」と言ったという讒言を信じたのも頷けないことはないです。

同族というが

しかしです。履中・反正・允恭の各天皇に即位した皇子達と大草香皇子おほくさかのみことでは、同族とは言っても、決定的な違いがあるのです。

母親です。3天皇の母親は磐之媛です。葛城氏の姫です。一方、大草香皇子おほくさかのみこ幡梭皇女はたびのひめみこ の母親は、美しかったとは言え、一介の日向国の諸県主の娘です。

今、天下を牛耳っているのは葛城氏です。

こんな話は、とても史実とは思えないので、これは葛城氏による反葛城勢力粛清事件を物語にすり替えたということではないかと想像します。

大草香皇子おほくさかのみこは、反葛城勢力だったということです。

 

安康天皇の崩御

安康2年 乙未きのとのひつじ 455

正月十七日 中蒂姫なかしひめを立てて皇后とされ、大変寵愛されました。中蒂姫なかしひめには、前夫の大草香皇子おほくさかのみことの間に眉輪王まよわのきみがいらっしゃいましたが、母のお蔭で罪を許され、常に宮中で育てられました。

安康3年 丙申ひのえのさる 456

八月九日 天皇が眉輪王まよわのきみに殺されます。それは大泊瀬天皇紀で詳しく述べます

三年後、天皇を菅原伏見陵すがわらのふしみのみささぎに埋葬申し上げました。

 原 文

二年春正月癸巳朔己酉 立中蒂姬命爲皇后 甚寵也 初中蒂姬命生眉輪王於大草香皇子 乃依母以得免罪 常養宮中

三年秋八月甲申朔壬辰 天皇 爲眉輪王見弑 辭具在大泊瀬天皇紀 三年後 乃葬菅原伏見陵

 ひとことメモ

中蒂姫なかしひめ

中蒂姫なかしひめは、父が履中天皇で、母が履中天皇の皇后(応神天皇の皇女)です。この姫様の高貴さは、エグイぐらいスゴイです。

ちょっと待って!もしかして大草香皇子おほくさかのみこって、天皇だったのかも、、、いや、妄想です。

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