日本書紀|第二十代 安康天皇①|木梨軽皇子と穴穂皇子の争い

穴穂天皇 -あなほのすめらみこと-
第二十代 安康天皇 -あんこうてんのう-

 

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安康天皇について

穴穂天皇あなほのすめらみこと(安康天皇)は、雄朝津間稚子宿禰おあさつまわくごのすくねの天皇(允恭天皇)の第二子です。ある話では、第三子とも伝わります

母は忍坂大中姫命おしさかのおほなかつひめのみこととおっしゃり、稚渟毛二岐皇子わかぬけふたまたのみこの娘です。

允恭四十二年

正月に允恭天皇が崩御されました。

十月に葬礼が終わりました。

木梨軽皇子きなしかるのみこ穴穂皇子あなほのみこの争い

太子の木梨軽皇子きなしかるのみこは婦女にたわけられたので、国人たちは太子を謗り、群臣は穴穂皇子あなほのみこに従いました。

このため、太子の木梨軽皇子きなしかるのみこ穴穂皇子あなほのみこを襲おうとして、密かに兵を整えられました。穴穂皇子あなほのみこもまた兵を率いて戦いの準備をされた。この時に、穴穂括箭あなほや軽括箭かるやが初めて作られました。

太子は、群臣は従わず人民も離れていることを知り、宮を出て物部大前宿禰もののべのおほまえのすくねの家に隠れられました。それを聞いて、穴穂皇子あなほのみこはすぐに大前宿禰の家を包囲されました。大前宿禰おおまえのすくねが門を出てお迎えした。この時、穴穂皇子あなほのみこが詠まれた歌

おほまへ をまへすくねが かなとかげ かくたちよらね あめたちやめむ

大前 小前宿禰が 金門陰 かく立ち寄らね 雨立ち止めむ

大前小前宿禰の金門の庇に、このように立ち寄れ 雨宿りをするぞ

大前宿禰がお答えして詠んだ歌

みやひとの あゆひのこすず おちにきと みやひととよむ さとびともゆめ

宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ

宮人の 足結につけた小鈴が 落ちてしまったと 宮人が騒いでいる 里人も気をつけなさい

そして、穴穂皇子あなほのみこをお迎えして、

「どうか太子を殺さないでください。私めが何とかしますので」

と申し上げました。

これによって、太子は大前宿禰の家で自死なさいました。ある話では、伊予國に流されたとも伝わります

 原 文

穴穗天皇 雄朝津間稚子宿禰天皇第二子也 一云 第三子也 母曰忍坂大中姬命 稚渟毛二岐皇子之女也 卌二年春正月 天皇崩 冬十月葬禮畢之

是時 太子行暴虐 淫于婦女 國人謗之 群臣不從 悉隸穴穗皇子 爰太子 欲襲穴穗皇子而密設兵 穴穗皇子 復興兵將戰 故穴穗括箭・輕括箭 始起于此時也 時太子 知群臣不從百姓乖違 乃出之 匿物部大前宿禰之家 穴穗皇子聞則圍之 大前宿禰出門而迎之 穴穗皇子歌之曰

於朋摩弊 烏摩弊輸區泥餓 訶那杜加礙 訶區多智豫羅泥 阿梅多知夜梅牟

大前宿禰答歌之曰

瀰椰比等能 阿由臂能古輸孺 於智珥岐等 瀰椰比等々豫牟 佐杜弭等茂由梅

乃啓皇子曰「願勿害太子 臣將議 」由是 太子自死于大前宿禰之家 一云 流伊豫國

 ひとことメモ

穴穂括箭あなほや軽括箭かるや

  • 穴穂括箭あなほやは、穴穂皇子あなほのみこが作った矢で、やじりが鉄製。
  • 軽括箭かるやは、木梨軽皇子きなしかるのみこが作った矢で、やじりが銅製。

穴穂括箭あなほやが最新式の武器で、軽括箭かるやが旧式の武器といったところでしょうか。銅から鉄への過渡期だった?いや、そんなことは無いと思うのですが、、、

物部大前宿禰もののべのおほまえのすくね

物部大前宿禰もののべのおほまえのすくねは、仁徳天皇が崩御したあと、仁徳の御子の住吉仲皇子すみのえのなかのおうじ去来穂別天皇いざほわけのすめらみことの皇位争いの際、去来穂別天皇いざほわけのすめらみことを宮殿から救い出した臣下の内の一人として登場しました。

今回、太子は大前宿禰の邸宅に逃げ込みました。逃げ込まれた大前宿禰も困ったことでしょう。

歌の内容は、この緊迫した場面にはそぐわないので後付けと判断し、あまり考察しないこととして、、、

この場面を想像するに、

家を取り囲んだ穴穂皇子あなほのみこに対して百戦錬磨の大前宿禰は臆することなく、言い放ちました。

 

「私が太子に自害をお勧めする。よって、太子を殺すのだけはやめて頂きたい!」

「貴方様が手を下されますと、日嗣の御子となられるべき貴方様が穢れますぞ!」

 

みたいな。。。

即位、大泊瀬皇子おおはつせのみこの相手探し

允恭42年 癸巳みずのとのみ 453

十二月十四日 穴穂皇子あなほのみこが、天皇に即位されました。先の皇后を尊んで、皇太后とお呼びしました。

そして、都を石上いそのかみに遷しました。これを穴穂宮あなほのみやといいます。

この時、大泊瀬皇子おおはつせのみこ(後の雄略天皇)が、瑞歯別天皇(反正天皇)の皇女たちを妻に望まれたが、 皇女のお名前は諸記に見えません 

君王きみ(大泊瀬皇子)は、いつも暴強で、急にお怒りなられ、朝にお目にかかた人が夕方には殺され、夕方にお目にかかった人は翌朝には殺されてしまいます。

私たちは器量が秀でているわけでもなく、加えて、気が利くわけでもございません。

もし私たちの立ち振る舞いや言葉が、毛の先ほども王の意に添わなければ、決して親しくはなれません。ですから、ご命令をお受けすることは出来ません」

と言って、隠れて聞き入れることはありませんでした。

 原 文

十二月己巳朔壬午 穴穗皇子卽天皇位 尊皇后曰皇太后 則遷都于石上 是謂穴穗宮

當是時 大泊瀬皇子 欲聘瑞齒別天皇之女等女名不見諸記 於是皇女等皆對曰「君王恆暴强也 儵忽忿起 則朝見者夕被殺 夕見者朝被殺 今妾等顏色不秀 加以 情性拙之 若威儀言語 如毫毛不似王意 豈爲親乎 是以 不能奉命 」遂遁以不聽矣

 ひとことメモ

穴穂宮あなほのみや

天理市田町に穴穂神社という神社があります。水神である高龗神を祀る神社です。石上穴穂宮に因んで明治時代に名称変更したということですので、この場所に穴穂宮があったかどうかはわかりません。でもまあ、きっとこのあたりだったのでしょう。

石上神宮のすぐ西です。ですから、物部氏の影響を受けやすい場所とも言えましょう。と言いますか、物部氏と近しい関係だったということかもしれないです。

反正天皇の皇女たち

暴君と言われた雄略天皇は、皇子時代も暴力的だったということです。誰も嫁になろうとはしなかった。

白羽の矢が立った反正天皇の娘さんたちも、いい迷惑ですね。拒否することすら恐ろしかったのではないでしょうか。

だから、断るとともに身を隠したんです。

史実かどうかは別にして。

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