小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと)
第二十五代 武烈(ぶれつ)天皇
、、、続き、、、
太子、眞鳥大臣を誅殺する
(仁賢十一年)
十一月十一日 大伴金村連は、太子に
「眞鳥のやからは、討つべきです。ご命令を頂けませんでしょうか」
と進言した。太子は
「天下争乱の恐れがある。類まれな勇者でなければ、成し遂げられない。それができるのは、連よ、お前だ」
とおっしゃり、策を練りました。
そして、大伴大連は、自ら兵を率いて、大臣の家を囲んで焼き払いました。
結果は雲散霧消となり、眞鳥大臣は、事がうまく運ばなかったことを残念に思い、自ら逃れがたいことを知り、計略は行き詰まり、望は絶えて、広く潮を指さして呪いを掛けました。
呪いを掛けたとき、角鹿の海鹽「7」だけは呪いをかけるのを忘れました。なので、角鹿の鹽は、天皇の食すところとなり、他の鹽は、天皇が嫌うところとなりました。
原 文
冬十一月戊寅朔戊子、大伴金村連、謂太子曰「眞鳥賊、可擊。請討之。」太子曰「天下將亂、非希世之雄不能濟也。能安之者、其在連乎。」卽與定謀。
於是、大伴大連、率兵自將、圍大臣宅、縱火燔之。所撝雲靡、眞鳥大臣、恨事不濟、知身難兔。計窮望絶、廣指鹽詛。遂被殺戮、及其子弟。 詛時、唯忘角鹿海鹽、不以爲詛。由是、角鹿之鹽、爲天皇所食、餘海之鹽、爲天皇所忌。 |
武烈天皇の即位
(仁賢十一年)
十二月 大伴金村連は、賊を平定し政を太子にお返ししました。そして尊号を奉りたいと奏上して、
「今、億計天皇(=仁賢天皇)の皇子は、陛下しかおられません。民衆が帰属するところは二つとないのです。又、天の助けによって、賊を浄め除くことができました。英略と勇断で天のご威光と天の位はますます盛んです。
日本には必ず主がおられます。日本の主が陛下でないとするなら一体誰でしょうや。伏して、お願い申し上げます。陛下は、天地の神にお答えして、詔を広く宣言して、日本を照らし、銀郷(日本国)をほしいままにお受け下さい」
そこで、太子は、役人に命じて、壇場を泊瀬列城「8」に設けて、天皇の位にお付きになり、都を定められました。
この日 大伴金村連を大連となさいました。
原 文
十二月、大伴金村連、平定賊訖、反政太子、請上尊號曰「今、億計天皇子、唯有陛下。億兆欣歸、曾無與二。又、頼皇天翼戴、淨除凶黨。英略雄斷、以盛天威天祿。日本必有主、主日本者非陛下而誰。伏願、陛下、仰答靈祗、弘宣景命、光宅日本、誕受銀鄕。」
於是、太子、命有司設壇場於泊瀬列城、陟天皇位、遂定都焉。是日、以大伴金村連爲大連。 |
水派邑の築城
三月二日 春日娘子 「9」を立てて皇后とされました。娘子の父は未詳です。
この年は、太歳 己卯 でした。
武烈2年 庚辰 500年
九月 妊婦の腹を割いて胎児を見られました。
武烈3年 辛巳 501年
十月 人の指甲を抜いて、山芋を掘らせました。
「信濃国の男丁を使って、城を水派邑に作れ」
とおっしゃいました。そこを、城上「10」といいます。
この月 百済の意多郎が亡くなり、高田丘「11」の上に埋葬しました。
武烈4年 壬午 502年
四月 人の頭の髪を抜いて樹に登らせておいて、樹の根本を切り倒して、登っていた者を落として殺して面白がられました。
原 文
元年春三月丁丑朔戊寅、立春日娘子爲皇后。未詳娘子父。是年也、太歲己卯。
二年秋九月、刳孕婦之腹而觀其胎。三年冬十月、解人指甲、使掘暑預。十一月、詔大伴室屋大連「發信濃國男丁、作城像於水派邑。」仍曰城上也。是月、百濟意多郎卒、葬於高田丘上。 四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。 |
ひとことメモ
角鹿の海鹽
角鹿の海鹽だけは、呪いをかけ忘れたから、天皇が食す塩となったとのこと。いったいこれには何の意味があるのでしょう。
角鹿の塩は天皇御用達の塩であることは、当時の人々の中では常識で、その由来をここに記した。そんな感じに思えます。
ではなぜ角鹿の塩が良いのでしょうか。その答えはわからないのですが、いくつかの豆情報を上げておきましょう。これらを組み合したら、角鹿の塩と天皇の関係が見えてくるかも。。。
- 鹿肉は塩漬けにして保存食とした。
- 鹿はミネラル補給のため、塩を舐める修正がある。
- 若い牡鹿の袋角は補精強壮薬(鹿茸)として重用された。
- 敦賀の海の干満差は他の海と比べて極めて小さい。(だから呪い忘れた?)
泊瀬列城宮
泊瀬列城宮は、奈良県桜井市出雲あたりとされています。十二柱神社の境内に武烈天皇社が祀られていて、泊瀬列城宮伝承地の碑が建てられています。
春日娘子
武烈天皇の皇后や妃は、春日娘子ただ一人でした。
この春日娘子は、謎の人物です。古事記には記されていないですし、両親も不明。「春日」とつく名前だから、春日和珥氏に関係する女性なんだろうと想像するしかないのです。
歴代の天皇の皇后は、皇女から立てられることが常でした。ですから父親が不明というのは解せないのです。
水派邑の城上
水派邑に城が作られたので、後年そこを城上邑と呼ぶようになったということです。
城上(きのへ)は、「き」は高地で「へ」は辺。河川の流域から見て一段高い土地、あるいは自然堤防上の地を指すといいます。
城上→城戸と村名は編成して、現在は河合町川合の「城古」として名を留めています。
地図を見てもわかるように、北からは富雄川が、南からは葛城川・曽我川・飛鳥川・寺川が、奈良盆地の主な河川の大半が大和川に合流するという、水運交通の要所であり、軍事的にも抑えるべきポイントです。
後世、ここに廣瀬大社が創建されたのも、そのような立地によると考えられています。
意多郎を高田の丘に葬る
百済の意多郎が亡くなり、高田丘の上に埋葬しました。
その墳墓がどこなのかはっきりしません。武烈天皇陵の南にある陪塚か、領家山古墳群のどれかか、岡崎稲荷あたりか。候補がいくつかあるようです。
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