小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと)
第二十五代 武烈(ぶれつ)天皇
、、、続き、、、
百済の嶋王
この年(武烈4年) 末多王は、非道な行いをして、百姓を暴虐しました。国人は遂に末多王を排除して、嶋王を立てました。この王が武寧王「12」です。
百済新撰には
「末多王は無道で百姓に暴虐であったので、国人は末多王を捨てて武寧王を立てました。諱を斯麻王といい、琨支王子の子であり、末多王の異母兄です。
琨支が倭に向かう途中、筑紫嶋に着いたとき、斯麻王を生みました。嶋から国に送り帰しましたが、京に着かずに嶋で生まれたのでそのように名付けたのです。
今、各羅海にある 主嶋 「13」が王の生まれた嶋です。だから、百済人は主嶋と名付けたのです」
と書かれている。
今、考えると、嶋王は蓋鹵王の子であり、末多王は琨支王の子であるから、異母兄というのはよくわかりません。
原 文
是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。
百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、國人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。 |
百済の斯我君に子が生まれた
武烈5年 癸未 503年
六月 人を堤の溝に入れて、外に流れ出たところを、三刃矛 で刺し殺して面白がりました。
武烈6年 甲申 504年
九月 詔して、
「国の政治を伝えるすべは、子を立てて継がせることである。しかし朕には後継ぎがない。何をもって名を残そうか。
かつての天皇の古い例にならって、小泊瀬舎人を置き、我が世の名を伝え、永遠に忘れる者の無きようにせよ」
とおっしゃいました。
十月 百済国が麻那君を派遣して、貢物しました。天皇は、百済が長い間貢物をしてこなかったことから、麻那君を留め置いて返しませんでした。
武烈7年 乙酉 505年
二月 人を樹に登らせて、弓で射落としてお笑いになられた。
四月 百済王が斯我君を派遣してきて、貢物をしました。上奏文で
「前に貢物の使者とした麻那は百済国王の一族ではありませんでした。よって今回は、謹んで斯我を遣わせて、お仕えさせます」
遂に子が生まれました「14」。 法師君 といい、これが倭君 の 祖 なのです。
原 文
五年夏六月、使人伏入塘楲、流出於外、持三刃矛刺殺、爲快。六年秋九月乙巳朔、詔曰「傳國之機、立子爲貴。朕無繼嗣、何以傳名。且依天皇舊例、置小泊瀬舍人、使爲代號・萬歲難忘者也。」冬十月、百濟國遣麻那君、進調。天皇、以爲百濟歷年不脩貢職、留而不放。
七年春二月、使人昇樹、以弓射墜而咲。夏四月、百濟王遣期我君、進調、別表曰「前進調使麻那者非百濟國主之骨族也、故謹遣斯我、奉事於朝。」遂有子、曰法師君、是倭君之先也。 |
狩場の造営
武烈8年 丙戌 506年
三月 女を裸にして平板に座らせて、そこに馬を曳いてきて、目の前で交尾をさせました。
そして、女の 不浄 を観察して、濡れている者は殺し、濡れていないものは 官婢 とされ、これを楽しみとされました。
この頃、池を掘って苑を作り、そこに禽や獸を満たして狩りをするのを好まれ、犬と馬とを競争させ、狩場への出入りは勝手気まま、大風も大雨もおかまいなしでした。
百姓が寒さに震えていることは気にせず自分は暖かい衣を着て、民衆が飢えていても自分は美食を貪っていました。
また、侏儒や役者を集め、淫らな音楽を流し、怪しい遊びをさせて、ふしだらに騒ぎ放題でした。
日夜、女官たちと酒に溺れ、錦の織物を敷物とされ、綾絹や白絹を身に着けた者が多くいました。
十二月八日 武烈天皇がは列城宮で崩御されました。
原 文
八年春三月、使女躶形坐平板上、牽馬就前遊牝。觀女不淨、沾濕者殺、不濕者沒爲官婢、以此爲樂。及是時、穿池起苑、以盛禽獸而好田獵、走狗試馬。出入不時、不避大風甚雨。衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢。大進侏儒倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戲、縱靡々之聲。日夜常與宮人沈湎于酒、以錦繡爲席、衣以綾紈者衆。
冬十二月壬辰朔己亥、天皇崩于列城宮。 |
ひとことメモ
武寧王
武寧王は、百済の第25代の王。
高句麗に圧倒され乱れていた百済を、高句麗に対抗できるまでに立て直した王だそうです。百済の英雄なんです。
武寧王が立った理由が、先王の非道暴虐に嫌気がさした国人により排除されたからだと記されています。
これは、武烈天皇に重ね合わせて読ませる意図があるように感じます。武烈天皇はクーデターで殺されたと言いたいのでは?と勘繰りたくなりますね。
各羅海にある 主嶋
これは、今の壱岐島と唐津の途中にうかぶ「加唐島」です。最南端にある港の傍に「武寧王生誕地」の石碑があります。
また、この島には神功皇后の伝承も残ってます。
島の西岸に「オビヤ浦」という地名があるのですが、新羅征伐に向かうとき、懐妊していた神功皇后が、ここで着帯の儀式を行ったといわれています。「帯祝い」が訛って「オビヤ」だそうですよ。
遂に子が生まれました
「遂に子が生まれました」と訳しました。「遂に」を「長く日本にいたのでその間に」と読む説もありますが、素直に訳せば「遂に」「やっと」です。
誰に子ができたのかというと、百済から献上された斯我です。その子の名が法師君。そして子孫が倭君となります。
大いに、違和感を覚えます。「遂に」と「倭君」に対して。
斯我は百済人です。百済人の子孫なら百済君とかになるならわかりますが、倭君とは何事でしょうか。倭君と名乗ることが出来そうな氏族は皇室の流れを汲む氏族でないと、、、と思うのです。
斯我の配偶者が皇族だった場合ならあり得るかもしれないですが、基本的に男系継承ですから、やはり無理があります。
斯我は女性だった?
そこで「遂に」に戻って、「遂に子が生まれた」→「とうとう子が生まれた」と解釈しましょう。
ここからは、想像です。。。
やっとのことで子が生まれた、、、子を待ち望んでいたのは?武烈天皇ですよね。
この子は武烈天皇の子だったのではないかという考えに至ります。
「(武烈天皇に)遂に子が出来た!その名を法師君といい、倭君の先です。」
これだと、文章の意味、遂にの意味、倭君に続く根拠、、、しっくりきます。
しかし、これを成立させるためには、、、斯我は女性でないといけません。
女性だとするならば納得がいく、別の記述があります。
「前に貢物の使者とした麻那は百済国王の一族ではありませんでした。よって今回は、謹んで斯我を遣わせて、お仕えさせます」
の部分です。ここも違和感がありました。なぜ麻那を引き上げて、一族の斯我を遣わしたのか。という疑問です。
どちらも女性だとすれば、一族の斯我と入れ替える理由が見えてきます。
それは女性であるが故の理由です。
麻那が長く帰らないと天皇の子を産む可能性が高くなりますよね。そして、麻耶が天皇の子を生んで次の天皇となれば、麻耶の一族は天皇家の外戚となります。
百済国内で、麻那の一族と百済王族とのバランスが崩れるわけです。それを心配して一族の斯我を送り込んだというように説明がつくのです。
法師君
このように、百済王の思惑通りに斯我は子を生みました。その子は法師君と名付けられました。
でも法師とは、仏門に入った人、すなわち僧侶です。この話は、仏教が伝来する前の話ですから、法師君という名は後世に付けられたのでしょう。
要するに、その子は「世俗を離れた人」とされ、皇位を継ぐことは叶わなかったということなのでは?
という想像をしてみました。。。
日本書紀巻第十六 完
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