瑞歯別天皇 -みつはわけのすめらみこと-
第十八代 反正天皇 -はんぜいてんのう-
誕生
瑞歯別天皇(反正天皇)は、去来穂別天皇(履中天皇)の同母弟です。履中天皇2年に皇太子に立たれました。
天皇は、初め、淡路宮でお生まれになりました。生まれながらにして歯がひとつの骨のようで、容姿は端麗でした。
瑞井と云う井戸があり、その井戸の水を汲んで、太子の体をお洗い申し上げていた時、多遅の花が井戸の中にありましたので、それを太子の名としました。
多遅の花とは虎杖の花のことです。だから、多遅比瑞歯別天皇と讃えて申し上げるのです。
6年三月、履中天皇が崩御されました。
原 文
瑞齒別天皇 去來穗別天皇同母弟也 去來穗別天皇二年 立爲皇太子
天皇 初生于淡路宮 生而齒如一骨 容姿美麗 於是有井曰瑞井 則汲之洗太子 時多遲花有于井中 因爲太子名也 多遲花者今虎杖花也 故稱謂多遲比瑞齒別天皇 六年春三月 去來穗別天皇崩 |
ひとことメモ
淡路宮
兵庫県南あわじ市松帆檪田の「産宮神社」が「淡路宮」の伝承地とされています。仁徳天皇が狩りに来られたとき、磐之媛皇后が瑞歯別皇子を出産。それがこの場所だとのことです。
この地域は広大な白砂に松が生い茂る景観地であり、かつ、鳥獣が多く棲みついていたため、狩り遊びの地としては絶好のロケーションだったらしいです。
今も、慶野松原に、古代の面影を見ることができます。
多遅の花
多遅の花は、虎杖の花のこととのこと。地方によっては「スカンポ」とも。
虎杖は、若葉を揉んで傷口につけると血が止まり痛みが和らぐため「痛み取り」が訛って「イタドリ」になったとか。
また、虎杖と書くのは、イタドリの茎が杖に使われ、その茎の模様が虎模様だから。
即位・皇后・皇子女・都
反正元年 丙午(ひのえのうま) 406
正月二日 儲君(瑞歯別天皇)が天皇に即位されました。
八月六日 大宅臣の祖の木事の娘の津野媛を皇夫人とされ、
- 香火姫皇女
- 円皇女
をお生みになられました。
夫人の妹の弟媛は、
- 財皇女
- 高部皇子
をお生みになられました。
十月 河内の丹比に都を造りました。これを柴籬宮といいます。
雨風が順調で、五穀がよく穣り、人民は富み賑い、天下太平の世でした。
この年の太歳は、丙午でした。
反正5年 庚戌 410
正月二十三日 天皇は正寝(正殿)で崩御されました。
原 文
元年春正月丁丑朔戊寅 儲君卽天皇位
秋八月甲辰朔己酉 立大宅臣祖木事之女津野媛 爲皇夫人 生香火姬皇女・圓皇女 又 納夫人弟々媛 生財皇女與高部皇子 冬十月 都於河內丹比 是謂柴籬宮 當是時 風雨順時 五穀成熟 人民富饒 天下太平 是年也 太歲丙午 五年春正月甲申朔丙午 天皇崩于正寢 |
ひとことメモ
津野媛
津野媛は「皇夫人」とあります。律令制において、「夫人」は、「后」「妃」に次ぐ地位だったといいますから、少し地位を低く表現しているようです。
先帝の履中天皇の正室も皇后ではなく「皇妃」と書かれていましたよね。
太子ではなく儲君と書いたり、皇后ではなく皇妃・皇夫人と書いたり、、、
履中天皇、反正天皇、允恭天皇の三兄弟による皇位継承には違和感を感じます。その違和感の正体は判然としませんが、、、
大宅臣
大宅臣は、古事記によると、
孝昭天皇の第一子であるところの天押帯日子命の後裔で、和爾16氏の一つ(ちょっと意訳)
と紹介されています。
柴籬宮
柴籬宮は、大阪府羽曳野市上田にある柴籬神社が伝承地となっていますが、それを裏付ける遺物が発見されたわけではないので、あくまでも伝承地です。
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