日本書紀|第十九代 允恭天皇①|皇位継承を辞退する

雄朝津間稚子宿禰天皇  -おあさつまわくごのすくねのすめらみこと
第十九代 允恭天皇 -いんぎょうてんのう-

 

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皇位継承を辞退する

雄朝津間稚子宿禰天皇おあさつまわくごのすくねのすめらみことは、反正はんぜい天皇の同母弟です。

天皇は、幼いときから秀でておられ、心根のやさしいお方でしたが、壮年になられて重い病を患われ、体が御不自由になられました。

履中五年

正月に瑞歯別天皇が崩御されました。

そのため、群卿まへつきみたちが協議して、

「今、仁徳天皇の皇子は、雄朝津間稚子宿禰皇子おあさつまわくごのすくねのみこ大草香皇子おおくさかのみこがいらっしゃるが、雄朝津間稚子宿禰皇子おあさつまわくごのすくねのみこは年長者でおられ、かつ、仁孝な方であられる」

と言いました。そこで吉曰を選び、御前に跪いて、天皇のみしるしを奉りました。

しかし、雄朝津間稚子宿禰皇子おあさつまわくごのすくねのみこ

「私には天の助けは無く、久しく重い病を患い、歩けなくなった。私は病を除こうを思い、一人で誰にも言わずに、密かに体を破るような治療を試みたが、なおも良くならない。

だから先皇は、『おまえは、いくら病気だとはいっても、勝手に体を傷つけるのは、甚だしい親不孝である。もし長生きしたとしても皇位を継ぐことはできない』とおしゃった。

また、兄の二人の天皇は、私を愚か者だと軽んじておられた。このことは、群卿まへつきみたちも知っておるであろう。

そもそも、天下は大きな器であり、帝位は大業である。民の父母になるということは、すなわち聖賢ひじりの仕事であって、愚人にはできようはずがない。もっと賢王よききみを選ぶべきであろう。私などは適任ではない」

とおっしゃって、お断りになられました。

 原 文

雄朝津間稚子宿禰天皇、瑞齒別天皇同母弟也。天皇、自岐㠜至於總角、仁惠儉下、及壯篤病、容止不便。五年春正月、瑞齒別天皇崩。

爰群卿議之曰「方今、大鷦鷯天皇之子、雄朝津間稚子宿禰皇子與大草香皇子、然雄朝津間稚子宿禰皇子、長之仁孝。」卽選吉曰、跪上天皇之璽。

雄朝津間稚子宿禰皇子、謝曰「我之不天、久離篤疾、不能步行。且我既欲除病、獨非奏言而密破身治病、猶勿差。由是、先皇責之曰『汝、雖患病縱破身、不孝孰甚於茲矣。其長生之、遂不得繼業。』亦、我兄二天皇、愚我而輕之、群卿共所知。夫天下者大器也、帝位者鴻業也、且民之父母斯則聖賢之職、豈下愚之任乎。更選賢王宜立矣、寡人弗敢當。」

 ひとことメモ

天皇のみしるし

三種の神器

天璽てんじあましるし、とも言われます。天津神の子孫である証拠となる品です。

古語拾遺が述べる、天照大御神が瓊瓊杵尊に授けた八咫鏡やたのかがみ天叢雲剣あめのむらくものつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたまといった、いわゆる三種の神器が、今も天皇の証として継承されています。

日本書紀の神武東征記に、饒速日尊の持ち物だった天羽々矢を見て、神武天皇は饒速日尊が天神の子孫であることを悟ったとありますから、天羽々矢もあましるしですね。

また先代旧事本紀に登場する、天神御祖あまつかみみおや饒速日尊にぎはやひのみことに授けた天璽瑞宝十種あまつしるしみずたからとくさも、あましるしの一つといえましょう。

体を破るような治療

体が破れたと思うほどに痛みを伴う治療だったと解釈することもできるかもしれませんが、それが親不孝である評されては可哀想です。

現代的に考えると、親不孝と表現する場合は自殺行為や自傷行為でしょう。

となれば、実際に体を破ったのかもしれません。手術です。

この時代に手術という医療方法が確立されていたとは思えない?私もそう思ってました。

ところがです。調べてみると、なんとなんと、歴史上初の外科手術は紀元前2750年だそうですよ。エジプトですが。

 

 

宗廟社稷を奉ることは重責

群臣は再び拝して、

「そもそも帝位は長く空っぽにしてはいけません。天命は拒むことはできないのです。

今、大王おおきみが時に逆らわれ、民の願いに逆らわれて、皇位に正しくお就きにならなければ、百姓おおみたからの希望が絶たれてしまうことを、私共は恐れているおです。

願わくば、大王おおきみにはご苦労をお掛けいたしますが、それでも皇位にお就き頂きたく」

とお願いしましたが。雄朝津間稚子宿禰皇子おあさつまわくごのすくねのみこ

宗廟社稷そうびょうしゃしょくを奉ることは重たい仕事である。私のような重病人では力不足である」

とおっしゃられて、お聞き入れになりませんでした。

それでも、群臣は皆そろって固くお願いして、

「私共、謹んで考えますに、大王おおきみが皇祖の宗廟そうびょうを奉られることが一番相応しいと考えます。天下万民も皆そう思っています。大王おおきみ、どうかお聞き入れくださいませ」

と申し上げました。

 原 文

群臣再拜言「夫帝位不可以久曠、天命不可以謙距。今大王留時逆衆不正號位、臣等恐百姓望絶也。願大王雖勞猶卽天皇位。」雄朝津間稚子宿禰皇子曰「奉宗廟社稷重事也。寡人篤疾、不足以稱。」猶辭而不聽。於是、群臣皆固請曰「臣伏計之、大王奉皇祖宗廟最宜稱。雖天下萬民、皆以爲宜。願大王聽之。」

 ひとことメモ

宗廟社稷そうびょうしゃしょくを奉る

宗廟は氏族の祖先を祀る施設で、社は土地の神を祀る施設、そして稷は穀物の神を祀る施設です。

古代中国では、天に祈り、土地と、その土地から穀物を得ることが、国の発展の基礎であると考えられていました。

この考え方が発展して、宗廟社稷そうびょうしゃしょくは政府・朝廷・国家のことを指すようになりました。よって、宗廟社稷そうびょうしゃしょくたてまつるるというのは、国家を運営するという意味になります。

日本における宗廟は、伊勢の神宮と石清水八幡宮です。すなわち、天照大御神と応神天皇を皇室の祖先としています。

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