日本書紀|第十九代 允恭天皇⑪|天皇崩御と新羅の弔問
哭礼の儀式
允恭42年 癸巳 453
正月十四日 天皇が崩御されました。享年、若干でした。
このとき、新羅王は、天皇崩御の報を聞き、驚き悲しんで、貢の船を八十艘、種種の楽人を八十人、献上しました。
対馬で停泊しては大きな声で泣き、筑紫に着いてもまた大きな声で泣き悲しみ、難波に着くと、素服を着替えて、多くの調を捧げ、種種の楽器を整えて、難波から京に至るまで、大声で泣き、或は、歌い舞りながら殯宮に参列しました。
ウネメハヤ ミミハヤ
十一月 新羅の弔使らは喪礼を終え、国に帰りました。新羅人は京城の近くの耳成山と畝傍山を愛で、琴引坂に至って、振り返り、
「ウネメハヤ ミミハヤ」(新羅訛りで)
と言いました。これは、まだ日本の言葉を習熟していなかったため、畝傍山を「ウネメ」といい、耳成山を「ミミ」と言ったのです。
しかし、倭の飼部が新羅人に従っていて、これを、”新羅人が釆女と通じた” と疑い、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に報告しました。
皇子はすべての新羅の使者を捕らえて調べました。
新羅の使者は
「釆女を犯したことなどありません。ただ、京の近くの二つの山を愛でて言っただけです」
と述べた。それで、間違いだということが判り、釈放されました。しかし、これには新羅人も大いに恨み、貢ぐ品物や船の数を減らしてしまいました。
十月十日 天皇を河内長野原陵に埋葬申し上げました。
原 文
卌二年春正月乙亥朔戊子、天皇崩、時年若干。於是新羅王、聞天皇既崩而驚愁之、貢上調船八十艘及種々樂人八十、是泊對馬而大哭、到筑紫亦大哭、泊于難波津則皆素服之、悉捧御調且張種々樂器、自難波至于京、或哭泣或儛歌、遂參會於殯宮也。
冬十一月、新羅弔使等、喪禮既闋而還之。爰新羅人、恆愛京城傍耳成山・畝傍山、則到琴引坂、顧之曰「宇泥咩巴椰、彌々巴椰。」是未習風俗之言語、故訛畝傍山謂宇泥咩、訛耳成山謂瀰々耳。時、倭飼部、從新羅人聞是辭而疑之以爲、新羅人通采女耳、乃返之啓于大泊瀬皇子。皇子則悉禁固新羅使者而推問、時新羅使者啓之曰「無犯采女。唯愛京傍之兩山而言耳。」則知虛言、皆原之。於是新羅人大恨、更減貢上之物色及船數。 冬十月庚午朔己卯、葬天皇於河內長野原陵。 |
ひとことメモ
若干
我々は「若干」というと「じゃっかん」と読んで、若いとか、少ないとかという意味で捉えますが、古語の若干は、すごくとか、すごく多いとかという意味もあるのです。
ですから、この場合の「享年若干」は、「享年は良くわからないが長生きでした」というような意味かと思います。
新羅人の弔問
「泣き叫びながらやってくる」という様子は、中国や朝鮮における「泣き女」の風習を思い起こさせます。儒教における「哭礼の儀式」です。
親族は泣き叫ぶことが出来ないから、周囲の人が変わりに大声で泣き叫んであげるという考え方で、葬儀におけるマナーだったとのこと。
その様子を表しているのでしょう。
河内長野原陵
河内長野原陵には、允恭天皇(いんぎょうてんのう)恵我長野北陵として市野山古墳に治定されています。墳長230mの前方後円墳で、全国19位の大きさです。
16代仁徳、17代履中、18代反正の各天皇陵が百舌鳥古墳群にあったのに対して、允恭天皇は日本武尊、14代仲哀、15代応神と同じ古市古墳群にあります。
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