日本書紀|第十九代 允恭天皇④|盟神探湯(くたかち)で氏姓を正す

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姓名を正す

允恭3年 甲寅きのえのとら 414

正月一日 使者を遣わして、新羅に名医を求められました。

八月 新羅から医師が来朝し、天皇の病を治すよう命令しました。幾日もかからず病は治りました。天皇は大変お喜びになり、医師を厚くお礼をして、国に帰されました。

允恭4年 乙卯きのとのう 415

九月九日 天皇は詔して、

「上古の国が治まっていたころは、人民は所を得て、姓名かばねなが混乱することはなかった。今、朕が踐祚せんそして4年、上下相争って、百姓おおみたからは安らかではなくなっている。

間違ってかばねを失った者もあれば、故意に高い位のうじを偽って名乗る者もいる。世が治まらないのは、これが原因であろう。

朕、賢者ではないが、なんでこの不正を正さないでおられようか。群臣により議定し奏上せよ」

とおっしゃいました。群臣は、皆、

陛下きみが間違いを挙げて、氏姓うじかばねを正しく定めるとなれば、私どもは、死を覚悟で取り組みます」

と申し上げました。天皇はそれを承諾しました。

同月二十八日 詔して、

「群卿百寮および諸国の国造らが、皆それぞれが、自分は天皇の末裔だとか、霊験あらたかな天降った神の末裔などという。

がしかし、天地人が分かれて以来、多くの年月が流れ、この間に、一つの氏から多くの姓が生まれた。ゆえに、真実を知ることは困難となった。

そこで、すべての氏姓を持つ者は、沐浴もくよく齊戒さいかいして、盟神探湯くかたちをおこうべし」

とおっしゃいました。

 原 文

三年春正月辛酉朔、遺使、求良醫於新羅。秋八月、醫至自新羅、則令治天皇病、未經幾時病已差也。天皇歡之、厚賞醫以歸于國。

四年秋九月辛巳朔己丑、詔曰「上古之治、人民得所、姓名勿錯。今朕踐祚於茲四年矣、上下相爭、百姓不安、或誤失己姓、或故認高氏。其不至於治者蓋由是也、朕雖不賢、豈非正其錯乎、群臣議定奏之。」群臣皆言「陛下舉失正枉而定氏姓者、臣等冒死。」奏可。

戊申、詔曰「群卿百寮及諸國造等、皆各言、或帝皇之裔・或異之天降。然、三才顯分以來多歷萬歲、是以、一氏蕃息更爲萬姓、難知其實。故、諸氏姓人等、沐浴齊戒、各爲盟神探湯。」

 ひとことメモ

氏姓の乱れとは

古代から中世にかけては、氏族の位で役割が与えられました。上位の氏族の人は高い位の役職が付くのです。

ですから、各氏族はこぞって皇室の子孫や天神の子孫だとかにルーツを求めました。求めたということは、そこにはウソが多かったということです。

参考までに、允恭天皇の政策から400年ほど後の、平安時代初期に編纂された新撰姓氏録に記載ある1182氏の内訳をみると、

  • 皇別・・・335氏(神武以降の天皇家から分枝した氏族)
  • 天神・・・246氏(天孫降臨に随伴した神々の子孫)
  • 天孫・・・128氏(瓊瓊杵尊ににぎのみことから鸕鶿草葺不合尊うがやふきあえずのみことまでの三代の子孫)
  • 地祇・・・30氏(土着の神々の子孫)
  • 諸潘・・・326氏(渡来系氏族)
  • それ以外・・・117氏

となっています。

地祇の30氏って、少なすぎると思いませんか?これらの30氏族は、紀にバッチリ出自が明記されている氏族がほとんど。そもそも偽りたくても偽れないんですね。

允恭天皇の頃よりも、さらに酷くなっているのかもしれないですね。

 

盟神探湯くかたち

そこで、味橿丘うまかしのをか辞禍戸ことのまがへのさき探湯瓮くかへを据え、皆に行かせて、

「正しき者は無事であろう。偽りの者は傷つくであろう」

とおっしゃいました。

うひぢを釜に入れて、沸騰させ、手を入れて湯の泥を探る。或いは、斧を火の色にまで焼き、それを掌に置く

諸人は木綿手繦ゆふたすき(木綿のタスキ)をして、探湯くかたちの釜に向かった。正しき者は何事もなく、正しくない者は皆傷つきました。

故意に偽っていた者は恐れて、進むことが出来なくなりました。これより後は、氏姓は自然と定まって、偽る者は無くなりました。

 原 文

則於味橿丘之辭禍戸、坐探湯瓮而引諸人令赴曰「得實則全、偽者必害。」盟神探湯、此云區訶陀智。或泥納釜煮沸、攘手探湯泥。或燒斧火色、置于掌。於是諸人、各著木綿手繦而赴釜探湯、則得實者自全、不得實者皆傷。是以、故詐者愕然之、豫退無進。自是之後、氏姓自定、更無詐人。

 ひとことメモ

盟神探湯

盟神探湯は、本文にも書かれてある通り、泥(湯)を沸かし、その中に手を入れて、正邪の判決を行う裁判の一種です。

結果を宣言してから手を入れて、無事なら宣言は正しものと見なされたということから、誓約うけいの一種ともとれます。

初見は、応神天皇紀で武内宿禰と弟の甘見内宿禰の争議のとき、そして今回の氏姓を正す裁判、他にも継体天皇紀でも登場します。

室町時代に足利義教が盟神探湯を裁判で使用した記録が残っているようです。

近世以降は、探湯は神前で身を清めるために沸かす湯のことを指すようになり、熱湯を笹の葉などで参拝者に掛ける「湯立神事」は、この盟神探湯の名残と言えます。

 

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