日本書紀|第十九代 允恭天皇⑤|玉田宿禰を粛清

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玉田宿禰の怠慢

允恭5年 丙辰ひのえのたつ 416

七月十四日 地震がありました。

これより先に、葛城襲津彦かづらきのそつびこの孫の玉田宿禰たまたのすくねに反正天皇のもがりを命じていました。

地震があった夜に、尾張連吾襲おはりのむらじ あそ殯宮もがりのみやの状況を調べさせました。すると、皆欠けることなく集まっていましたが、ただ、玉田宿禰だけ居ませんでした。

そこで、吾襲は、あそ

殯宮大夫もがりのみやのかみ玉田宿禰たまたのすくねは、もがりの場所には居られませんでした」

と報告しました。そこで、また、吾襲あそを葛城に遣わして、玉田宿禰たまたのすくねを偵察させました。

この日、玉田宿禰は男女を集めて酒宴をしていました。吾襲あそは、事の次第を玉田宿禰に話しました。すると宿禰は事が起こることを恐れて、吾襲あそ礼幣ゐやのまいとして馬一頭を与え、そして、密かに待ち伏せして吾襲あそを殺し、武内宿禰たけのうちのすくねの墓地に逃げ隠れました。

 原 文

五年秋七月丙子朔己丑、地震。先是、命葛城襲津彥之孫玉田宿禰、主瑞齒別天皇之殯。則當地震夕、遣尾張連吾襲、察殯宮之消息、時諸人悉聚無闕、唯玉田宿禰無之也。

吾襲奏言「殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。」則亦遣吾襲於葛城、令視玉田宿禰、是日、玉田宿禰、方集男女而酒宴焉。吾襲、舉狀、具告玉田宿禰。宿禰則畏有事、以馬一匹授吾襲爲禮幣、乃密遮吾襲而殺于道路、卽逃隱武內宿禰之墓域

玉田宿禰討伐

天皇はこのことをお聞きになり、玉田宿禰を呼び出されました。玉田宿禰はこれを疑って、衣服の中によろいを着けて参上しましたが、衣の裾から甲の端が見えていました。

天皇は、その状況を明らかにしようと思い、小墾田釆女おはりだのうねめに命じて玉田宿禰に酌をさせました。采女は衣の中のよろいを明らかにし、天皇に報告しました。天皇は兵将に討たせようとしましたが、玉田宿禰は密かに逃げ出て家に隠れました。天皇はさらに軍を向かわせ、玉田の家を取り囲んで捕らえて誅殺しました。

十一月十一日 反正天皇を耳原陵みみはらのみささぎに埋葬申し上げました。

 原 文

天皇聞之、喚玉田宿禰。玉田宿禰疑之、甲服襖中而參赴、甲端自衣中出之。天皇分明欲知其狀、乃令小墾田采女賜酒于玉田宿禰、爰采女分明瞻衣中有鎧而具奏于天皇。天皇設兵將殺、玉田宿禰乃密逃出而匿家。天皇更發卒、圍玉田家而捕之乃誅。冬十有一月甲戌朔甲申、葬瑞齒別天皇于耳原陵。

 ひとことメモ

地震

初めて「地震」という言葉が登場しました。日本最古の地震の記述といわれています。

中国では天変地異は地上の政治の反映、異常気象も天災もすべて地上の政治が正しく機能していないことの証だと考えられていました。

ですから、この説話の冒頭で地震を発生させておくことで、強権を持った葛城氏の政治に天が警鐘を鳴らしたのだと、すなわち玉田宿禰の誅殺は天の意思であるという位置づけにしたかったのではないかと想像しました。

武内宿禰の墓

室宮山古墳は、奈良県御所市大字室にある前方後円墳。墳丘長238m。全国18位の大きさを誇ります。一説には葛城襲津彦の墳墓ともいわれています。

隅田古墳は、和歌山県橋本市隅田町の隅田八幡宮の近くにあります。かつて武内宿禰が応神天皇を連れて紀国から大和へ向かう途中で滞在した場所だとのことです。

といいますか、あの天下の大大臣がいつの間にか亡くなっていました。記紀には武内宿禰の死亡に関する記事がありません。どういうことでしょうかね。

因幡国風土記の逸文に、仁徳天皇55年3月に武内宿禰は360余歳にして因幡国の亀金丘に双履を残して行方知らずとなったとの記述があるようです。今の宇部神社です。

でもこれって、大国主命の協力者として国造りを行った少彦名命が、海の彼方の常世の国に去っていった神話とよく似てません?とても神話チックです。

耳原陵みみはらのみささぎ

反正天皇の御陵、耳原陵みみはらのみささぎは、百舌鳥古墳群の中心 ”大仙古墳” の北にある前方後円墳 ”田出井山古墳” に治定されています。方位除けで有名な方違神社の裏手です。墳長は148m。天皇陵としては小振りですね。

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