日本書紀|第十九代 允恭天皇⑥|衣通郎姫(そとおしのいらつめ)

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衣通郎姫そとおしのいらつめ

允恭7年 戊午つちのえのうま 418

十二月一日 新築祝いの宴がありました。天皇が自ら琴を弾き、皇后が立って舞われましたが、舞い終わっても礼事を言われませんでした。当時の風習として、宴会の時に舞う人は、舞い終わると、座長に対して「娘子おみなを奉る」と言うの決まりでした。

天皇が

「どうして、常の礼をしないのだ」

と尋ねると、皇后は畏まって、また舞われて、舞い終わってから

娘子おみなを奉る」

と申し上げました。天皇が

「奉る娘子おみなとは誰れのことかの。名前を知りたいのだが」

とお尋ねになると、皇后は仕方なく、

「私めの妹で、名を弟姫おとひめといいます」

とお答えしました。

弟姫は容姿端麗で並ぶものがありませんでした。その色気が衣を通して輝いていたので、時の人は衣通郎姫そとおしのいらつめと呼んでいました。天皇は衣通郎姫そとおしのいらつめを召したく思い、皇后に強く命じました。

皇后は、こうなることが判っていたので、礼事を言わなかったのです。

天皇は、大変喜ばれて、翌日すぐに使者を遣わして、弟姫を呼び出されました。

 原 文

七年冬十二月壬戌朔、讌于新室。天皇親之撫琴、皇后起儛、儛既終而不言禮事。當時風俗、於宴會者儛者儛終則自對座長曰「奉娘子也。」時天皇謂皇后曰「何失常禮也。」皇后惶之、復起儛、儛竟言「奉娘子。」天皇卽問皇后曰「所奉娘子者誰也、欲知姓字。」皇后不獲已而奏言「妾弟、名弟姬焉。」

弟姬、容姿絶妙無比、其艶色徹衣而晃之、是以、時人號曰衣通郎姬也。天皇之志存于衣通郎姬、故强皇后而令進、皇后知之、不輙言禮事。爰天皇歡喜、則明日遣使者喚弟姬。

 ひとことメモ

おそらく、臣下が舞を舞うということは服属の意を表することで、よって「娘を献上します」というのが儀礼となっていたのでしょう。

しかし今回は皇后です。たぶん儀礼を行う義務はなかったと思われます。

ところが天皇は、言わせたかったのです。衣通郎姫そとおしのいらつめを得たいと思ってたから。そこで「娘を献上します」と言わざるを得ない状況を作ったのです。やらしいオッサンですね。

ついこの前まで重病で歩けなかった人とは思えませんね。

 

使者は、中臣烏賦津使主なかとみのいかつのおみ

この時、弟姫は母と共に近江の坂田に居ました。弟姫は、皇后のお気持ちを畏れて、参上されませんでした。また重ねて七度もお呼びになられましたが、弟姫は固く辞退して参上されません。

天皇は残念に思いましたが、また、一人の舎人とねり中臣烏賦津使主なかとみのいかつのおみに詔して、

「皇后が進める娘子おみなの弟姫は呼んでも来ない。お前が自ら行き、弟姫を連れてこい。必ず厚く褒美を与えようぞ」

とおっしゃいました。

烏賦津使主いかつのおみは、命令を受けて退出し、ほしいを衣服のみごろに隠して、坂田に至り、弟姫の家の庭に伏して、

「天皇のご命令により、迎えに参りました」

と言うと、弟姫は

「どうして天皇のご命令に畏まらないということがありましょう。ただ皇后の御心を傷つけたくないだけなのです。私めの身が滅びようとも、参上いたしません」

とお答えになりました。

 原 文

時弟姬、隨母以在於近江坂田、弟姬畏皇后之情而不參向。又重七喚、猶固辭以不至、於是天皇不悅而復勅一舍人中臣烏賦津使主曰「皇后所進之娘子弟姬、喚而不來。汝自往之、召將弟姬以來、必敦賞矣。」爰烏賦津使主、承命退之、糒褁裀中、到坂田、伏于弟姬庭中言「天皇命以召之。」弟姬對曰「豈非懼天皇之命。唯不欲傷皇后之志耳。妾雖身亡、不參赴。」

 ひとことメモ

近江の坂田

弟姬は母と坂田に住んでいたとあります。ということは姉の大中媛も坂田の出身と想像できます。

坂田とは、息長氏の本拠地です。允恭天皇は、息長氏の姫を娶ったということです。すなわち息長氏と手を組んだとも取れます。

これまでは葛城一族が外戚として幅を利かせていました。しかしここにきて、玉田宿禰の一件も含めて、允恭天皇は葛城一族を排除しようとしているように見えます。

というか、息長氏の思惑通りに天皇が動かされている?ようにも。

 

中臣烏賦津使主なかとみのいかつのおみ

そんな息長氏の姫君を迎えに行ったのが中臣烏賦津使主なかとみのいかつのおみです。

仲哀天皇が崩御されたときにも中臣烏賦津使主なかとみのいかつのおみが登場しました。武内宿禰と並ぶ忠臣だったといいます。その孫だろうといわれています。

祖父の中臣烏賦津使主なかとみのいかつのおみが仕えたのが、仲哀天皇と神功皇后。神功皇后は息長氏の出身。

孫の中臣烏賦津使主なかとみのいかつのおみが迎えに行ったのが息長氏の姫。繋がりますね。

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