衣通郎姫
允恭7年 戊午 418
十二月一日 新築祝いの宴がありました。天皇が自ら琴を弾き、皇后が立って舞われましたが、舞い終わっても礼事を言われませんでした。当時の風習として、宴会の時に舞う人は、舞い終わると、座長に対して「娘子を奉る」と言うの決まりでした。
天皇が
「どうして、常の礼をしないのだ」
と尋ねると、皇后は畏まって、また舞われて、舞い終わってから
「娘子を奉る」
と申し上げました。天皇が
「奉る娘子とは誰れのことかの。名前を知りたいのだが」
とお尋ねになると、皇后は仕方なく、
「私めの妹で、名を弟姫といいます」
とお答えしました。
弟姫は容姿端麗で並ぶものがありませんでした。その色気が衣を通して輝いていたので、時の人は衣通郎姫と呼んでいました。天皇は衣通郎姫を召したく思い、皇后に強く命じました。
皇后は、こうなることが判っていたので、礼事を言わなかったのです。
天皇は、大変喜ばれて、翌日すぐに使者を遣わして、弟姫を呼び出されました。
原 文
七年冬十二月壬戌朔、讌于新室。天皇親之撫琴、皇后起儛、儛既終而不言禮事。當時風俗、於宴會者儛者儛終則自對座長曰「奉娘子也。」時天皇謂皇后曰「何失常禮也。」皇后惶之、復起儛、儛竟言「奉娘子。」天皇卽問皇后曰「所奉娘子者誰也、欲知姓字。」皇后不獲已而奏言「妾弟、名弟姬焉。」
弟姬、容姿絶妙無比、其艶色徹衣而晃之、是以、時人號曰衣通郎姬也。天皇之志存于衣通郎姬、故强皇后而令進、皇后知之、不輙言禮事。爰天皇歡喜、則明日遣使者喚弟姬。 |
ひとことメモ
おそらく、臣下が舞を舞うということは服属の意を表することで、よって「娘を献上します」というのが儀礼となっていたのでしょう。
しかし今回は皇后です。たぶん儀礼を行う義務はなかったと思われます。
ところが天皇は、言わせたかったのです。衣通郎姫を得たいと思ってたから。そこで「娘を献上します」と言わざるを得ない状況を作ったのです。やらしいオッサンですね。
ついこの前まで重病で歩けなかった人とは思えませんね。
使者は、中臣烏賦津使主
この時、弟姫は母と共に近江の坂田に居ました。弟姫は、皇后のお気持ちを畏れて、参上されませんでした。また重ねて七度もお呼びになられましたが、弟姫は固く辞退して参上されません。
天皇は残念に思いましたが、また、一人の舎人の中臣烏賦津使主に詔して、
「皇后が進める娘子の弟姫は呼んでも来ない。お前が自ら行き、弟姫を連れてこい。必ず厚く褒美を与えようぞ」
とおっしゃいました。
烏賦津使主は、命令を受けて退出し、糒を衣服の裀に隠して、坂田に至り、弟姫の家の庭に伏して、
「天皇のご命令により、迎えに参りました」
と言うと、弟姫は
「どうして天皇のご命令に畏まらないということがありましょう。ただ皇后の御心を傷つけたくないだけなのです。私めの身が滅びようとも、参上いたしません」
とお答えになりました。
原 文
時弟姬、隨母以在於近江坂田、弟姬畏皇后之情而不參向。又重七喚、猶固辭以不至、於是天皇不悅而復勅一舍人中臣烏賦津使主曰「皇后所進之娘子弟姬、喚而不來。汝自往之、召將弟姬以來、必敦賞矣。」爰烏賦津使主、承命退之、糒褁裀中、到坂田、伏于弟姬庭中言「天皇命以召之。」弟姬對曰「豈非懼天皇之命。唯不欲傷皇后之志耳。妾雖身亡、不參赴。」 |
ひとことメモ
近江の坂田
弟姬は母と坂田に住んでいたとあります。ということは姉の大中媛も坂田の出身と想像できます。
坂田とは、息長氏の本拠地です。允恭天皇は、息長氏の姫を娶ったということです。すなわち息長氏と手を組んだとも取れます。
これまでは葛城一族が外戚として幅を利かせていました。しかしここにきて、玉田宿禰の一件も含めて、允恭天皇は葛城一族を排除しようとしているように見えます。
というか、息長氏の思惑通りに天皇が動かされている?ようにも。
中臣烏賦津使主
そんな息長氏の姫君を迎えに行ったのが中臣烏賦津使主です。
仲哀天皇が崩御されたときにも中臣烏賦津使主が登場しました。武内宿禰と並ぶ忠臣だったといいます。その孫だろうといわれています。
祖父の中臣烏賦津使主が仕えたのが、仲哀天皇と神功皇后。神功皇后は息長氏の出身。
孫の中臣烏賦津使主が迎えに行ったのが息長氏の姫。繋がりますね。
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