茅渟の宮へ
衣通郎姫は、
「私めは、王宮の近くで昼夜問わず常に陛下の立派な御姿を拝見しとうございます。しかし、皇后は私めの姉です。私めが原因で陛下を恨んでおられ、また私めのせいで苦しんでおられます。ですので、王宮から遠く離れた所に住みたいと存じます。そうすれば、皇后様のお心も少しは休まるのではないでしょうか」
と申し上げました。
天皇は、すぐに河内の茅渟に宮室をお造りになり、衣通郎姫を住まわせました。これによって、たびたび日根野に猟に出掛けられるようになりました。
允恭9年 庚申 420
二月 茅渟宮に御幸されました。
八月 茅渟に御幸されました。
十月 茅渟に御幸されました。
允恭10年 辛酉(かのとのとり) 421
正月 天皇は、茅渟に御幸されました。
そこで、皇后は天皇に、
「私は髪の毛ほども弟姫を恨んではおりません。でも、陛下がたびたび茅渟に御幸されることは心配です。それが百姓の苦しみになると思いますので。どうか、御幸の回数を減らしていただけないでしょうか」
と申し上げました。これ以降、天皇はまれにしか行かれなくなりました。
原 文
皇后聞之、且大恨也。於是、衣通郎姬奏言「妾、常近王宮而晝夜相續、欲視陛下之威儀。然、皇后則妾之姉也、因妾以恆恨陛下、亦爲妾苦。是以、冀離王居而欲遠居、若皇后嫉意少息歟。」天皇則更興造宮室於河內茅渟而衣通郎姬令居、因此、以屢遊獵于日根野。
九年春二月幸茅渟宮、秋八月幸茅渟、冬十月幸茅渟。 十年春正月幸茅渟、於是皇后奏言「妾、如毫毛、非嫉弟姬。然、恐陛下屢幸於茅渟、是百姓之苦歟。仰願宜除車駕之數也。」是後、希有之幸焉。 |
ひとことメモ
河内の茅渟の宮
茅渟は、今の大阪府堺市から泉南に至る大阪湾岸のエリアを指します。泉州です。
現代の私たちはこのエリアは「和泉国」だという認識ですが、この当時はこのあたりも「河内国」でした。716年に「和泉監」が設置されたものの一旦河内国に吸収され、改めて「和泉国」が設置されたのは757年です。
茅渟の宮の伝承地は、大阪府泉佐野市上之郷にあります。
御幸の費用
皇后は、茅渟宮へ御幸される回数を減らすよう諫言しました。理由は人民が苦しむから。
ということは、かなりの費用や労役が必要だったでしょうね。
ちなみに、奈良時代から平安時代にかけての御幸には、1000人から2000人随行したといいます。聖武天皇が紫香楽宮に御幸されたときは、2400名だったとの記録もあります。
藤原部の設置
允恭11年 壬戌(みずのえのいぬ) 422
三月四日 茅渟宮に御幸された。この時、衣通郎姫が歌を詠まれた。
とこしへに きみもあへやも いさなとり うみのはまもの よるときときを とこしへに 君もあへやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を いつまでも変わることなく あなた様に逢えるわけではありません 海の浜藻が波に乗って寄せ来るようにしか、、、 |
天皇は
「この歌を他人に聞かせてはならん。皇后が聞いたら、かならずや恨むだろうから」
とおっしゃいました。そこで、時の人は浜藻のことを、”なのりそ藻” といいました。
これより前、衣通郎姫が藤原宮に居られたとき、天皇は、大伴室屋連に
「朕は最近、超美人の嬢女を得た。皇后の同母妹である。朕は殊に可愛がっておるのだ。その名を後世に残したいと思うが、どうだ」
とお尋ねにまりました。室屋連が勅に添って奏上し承認されましので、諸国の国造に命じて、衣通郎姫のために藤原部を定められました。
原 文
十一年春三月癸卯朔丙午、幸於茅渟宮、衣通郎姬歌之曰、
等虛辭陪邇 枳彌母阿閉椰毛 異舍儺等利 宇彌能波摩毛能 余留等枳等枳弘 時天皇謂衣通郎姬曰「是歌不可聆他人、皇后聞必大恨。」故時人、號濱藻謂奈能利曾毛也。 先是、衣通郎姬居于藤原宮、時天皇詔大伴室屋連曰「朕頃得美麗孃子、是皇后母弟也、朕心異愛之。冀其名欲傳于後葉、奈何。」室屋連、依勅而奏可、則科諸國造等、爲衣通郎姬定藤原部。 |
ひとことメモ
允恭10年の正月以来の御幸ですから、1年3か月ぶりです。
我慢しましたね。
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