日本書紀|神功皇后①|仲哀天皇を死に至らしめた神々の名は、、、

2020年11月4日

気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)

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摂政前

気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は、開化天皇の曾孫の気長宿禰王おきながのすくねのおほきみの娘で、母は葛城高顙媛かづらぎのたかぬかひめです。

仲哀天皇二年に皇后となられました。

幼い頃から聡明にして叡智にあふれ、そのうえ容姿は壮麗。父王も驚くほどでした。

 原 文

気長足姬尊、稚日本根子彦大日々天皇之曾孫、気長宿禰王之女也、母曰葛城高顙媛。足仲彦天皇二年、立爲皇后、幼而聰明叡智、貌容壯麗。父王異焉。

 ひとことメモ

神功皇后の出自

父親の気長宿禰王おきながすくねのおおきみは、9代開化天皇-彦坐王ひこいますのおう山城之大筒気眞若王やましろのおおつつきまわかのみこ迦邇米雷王かにめいかずちのみこ気長宿禰王おきながのすくねのおおきみと続く皇族の一人。

山城之大筒気眞若王・迦邇米雷王とも、妻を丹波国から迎えていますから、気長宿禰王は近江と丹波の結束の証ということになりましょう。

一方、母親は葛城之高額媛かつらぎのたかぬかひめは、天之日矛あめのひぼこ多遅摩母呂須玖たじまもろすく多遅摩斐泥たじまひね多遅摩比那良岐たじまひらなき多遅摩比多訶たじまひかた-葛城之高額比売命と続く、渡来系氏族の娘。

但馬国を本拠とし、若狭に至る日本海沿岸部を治める大勢力の出身で、しかも「葛城」をその名に冠しています。

この気長宿禰王と葛城之高額媛の二人の結婚は、近江-若狭-丹後-但馬の連合体を強固なものしました。ヤマト王朝に対抗できるほどに。

その連合体の姫こそが、気長足姫命なのです。

 

神の名を知る

仲哀9年(200年)

二月 仲哀天皇が筑紫の橿日宮で崩御されました。その時、皇后は、天皇が崩御されたのは神のお言葉従わなかったためだと心を痛められ、祟り神の名を知り、財宝の国を得たいと思いました。

そこで、群臣および百寮に命じて、罪を祓い過ちを改めて、さらには斎宮いわいのみや小山田邑おやまだのむらに造りました。

三月一日 皇后は、吉日を選んで斎宮いわいのみやにお入りになり、神主かむぬしとなられました。武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主なかとみのいかつのおみを召喚して審神者さにわとました。

そして、琴の頭と尾に、たくさんの絹幡を付けて請い願って曰く、

「先の日に、天皇にお教えになられた神はどなたですか?そのお名前をお教えくださいませ。」

と祈られました。

七日七夜ののちに、神が答えて、

「神風の伊勢国の百伝う度逢縣わたらいのあがた拆鈴五十鈴宮さくすずいすずのみやに坐します神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命つきさかき いつのみたま あまさかる むかつひめのみことである。」

とおっしゃいました。また、

「この神の他にも、まだ神はおられますか?」

とお尋ねすると、

「幡のようなススキの穂から現れた私という、尾田おだ吾田節あがたふし淡郡あわのこおりに坐します神がある。」

とお答えがあり、更にお尋ねすると、

天事代 虚事代 玉籤入彦 厳之事代主神あめにことしろ そらにことしろ たまくしいりひこ いつのことしろぬしのかみがある。」

と答えられた。

「まだ他におられますか?」

と問えば、

「有るか無いか知らぬ。」

とお答えになられました。審神者(さには)が

「今はお答えにならなくても、後日お答えになるようなことはございますか?」

と尋ねると、

日向国ひむかのくに の橘小門 たちばなのおどの水底に坐しまして、水葉(海草)のように若々しい神、表筒男うわつつのお ・ 中筒男なかつつのお ・ 底筒男そこつつのおの神がおる。」

とお答えになり、

「まだ他にもおられますか?」

と問えば、

「有るか無いか知らぬ。」

とお答えになられ、遂には他に居られる神はわかりませんでした。このように神のお告げを得て、教えに従って神々をお祭りしました。

このようにしてから、吉備臣の祖であるところの鴨別(かものわけ)を遣わして、熊襲国を討たせたところ、十二日の間に、自から服従してきました。

 原 文

九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后、傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。

三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主爲審神者。因以千繒高繒置琴頭尾、而請曰「先日教天皇者誰神也、願欲知其名。」逮于七日七夜、乃答曰「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。」亦問之「除是神復有神乎。」答曰「幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。」問「亦有耶。」答曰「於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代主神有之也。」問「亦有耶。」答曰「有無之不知焉。」

於是、審神者曰「今不答而更後有言乎。」則對曰「於日向國橘小門之水底所居而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」問「亦有耶。」答曰「有無之不知焉。」遂不言且有神矣。時得神語、隨教而祭。然後、遣吉備臣祖鴨別、令擊熊襲國、未經浹辰而自服焉。

 ひとことメモ

神の名は、、、

神は、四柱(七柱とも言える)の神の名を明かしました。この神々が、新羅征伐を勧めた神々ということになります。

撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命

「つきさかき いつのみたま あまさかる むかつひめのみこと」

兵庫県西宮市の廣田神社の由緒記に、当社の祭神は「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命」で、天照大御神の荒御魂であると記されていますから、天照大御神の荒御魂なのでしょう。

そしてそれは、伊勢の度会の五十鈴宮に坐す神という点にも一致します。

伊勢の神宮内宮の正宮の裏手に荒祭宮あらまつりのみやがあります。こちらの祭神も「天照大御神の荒御魂」。よって、「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命」と言い換えることが出来ましょう。

ホツマツタヱによると、「セオリツホノコがアマテルの正宮(正妻)となり、ムカツヒメとなる」と伝えます。ですから「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命」は男神「天照大御神」の正妻の名ということになり、それは瀬織津姫せおりつひめでもあるということになりますね。

淡郡に坐します神

「尾田の吾田節あがたふし(あがたふし)の淡郡あわのこおり(あはのこほり)に坐します神」とあります。

阿波国の赤田神社の由緒によると、この神は経津主神ふつぬしのかみだとしています。吾田が赤田で、節が「ふつ」で経津主神、淡は阿波です。

武甕槌神だとする説もありますね。

また、志摩国の伊射波神社の説では、稚日女尊わかひるめのみこととしています。尾田は加布良古の古名、吾田は答志郡、淡郡は粟嶋で、今の安楽島。

新羅征伐か帰還したあとの物語を見ると、稚日女尊とするのが自然だと思います。

天事代虚事代玉籤入彦嚴之事代主神

「あめにことしろ そらにことしろ たまくしいりひこ いつのことしろのかみ」と読みます。

事代主神ことしろぬしのかみですね。

出雲國造神賀詞いずものくにのみやつこのかんよごと』によると、事代主神は、大国主神が皇孫の守護神として配置した四神の内の一柱。

古事記では、大国主命が国を譲る際に「事代主が先頭に立てばすべての国神は従う」と言わしめた大神。

その実体は三輪に鎮まる大物主神(大国主神)と同一ともいわれていますから、国津神の最高峰に位置する神といえましょう。

表筒男・中筒男・底筒男

三柱を総称して、住吉三神とも、住吉大神とも。

伊弉諾尊が黄泉の国でついた罪・穢れを洗い流すために、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊を行ったときに現れた神です。

だから、日向国ひむかのくに の 橘小門たちばなのおど の水底に坐しまして、水葉(海草)のように若々しい神、ということになるのです。

現れてからずっと、橘小門の水底に鎮まっていたんですね。

小山田邑の斎宮

神功皇后が籠って祈祷をした斎宮の候補は2つ。

山田邑斎宮

福岡県糟屋郡久山町大字山田にあります。

祭神は、天疎向津姫命(天照大神)・武甕槌神・事代主神・住吉三神・神功皇后。

斎宮で神から名を聞いた、その神々を祀っているとするならば、2番目の「淡郡に坐します神」を「武甕槌神たけみかづちのかみ」と解釈したということでしょう。

小山田斎宮

福岡県古賀市小山田にあります。

祭神は、天照大神・健布都神・事代主神・住吉大神・気長足姫尊(神功皇后)です。

同じく、斎宮で神から名を聞いた、その神々を祀っているとするならば、2番目の「淡郡に坐します神」を「健布都神(経津主神)」と解釈したということになります。

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