日本書紀|神功皇后⑩|忍熊皇子の最期

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菟道の戦い

三月三日 皇后は、武内宿禰と和珥臣(わにのおみ)の祖の武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の兵を率いて忍熊王を討伐させました。

武内宿禰らは、精鋭を選んで、山背を出発し菟道(うじ)に至り、河の北に陣取りました。忍熊王も出陣し、戦おうとしました。

この時、熊之凝(くまのこり)という者が、忍熊王軍の先鋒でした。熊之凝は、葛野城首(かづののきのおびと)の祖です。一説には、多吳吉師(たごのきし)の遠祖(とほつおや)とも。

熊之凝は軍勢を鼓舞しようとして、声高らかに歌を詠みました。

遠くに見えるまばらな松原 あの松原まで渡って進軍し、槻弓に丸い鏑矢をつがえ、

貴人は貴人同士で、親友は親友同士で団結して、いざ戦おう、我が軍は。

敵の武内朝臣の腹の中は、砂などあるはずもないのだから、いざ戦おう、我が軍は。

 原 文

三月丙申朔庚子、命武內宿禰・和珥臣祖武振熊、率數萬衆、令擊忍熊王。爰武內宿禰等、選精兵、從山背出之、至菟道以屯河北。忍熊王出營、欲戰。時、有熊之凝者、爲忍熊王軍之先鋒。熊之凝者、葛野城首之祖也。一云、多吳吉師之遠祖也。則欲勸己衆、因以、高唱之歌曰、

烏智箇多能 阿邏々麻菟麼邏 摩菟麼邏珥 和多利喩祇氐 菟區喩彌珥 末利椰塢多具陪 宇摩譬等破 于摩譬苔奴知野 伊徒姑播茂 伊徒姑奴池 伊裝阿波那 和例波 多摩岐波屢 于池能阿層餓 波邏濃知波 異佐誤阿例椰 伊裝阿波那 和例波

 ひとことメモ

皇后軍の行軍行程

務古水門で神祭りを行った皇后は、難波から住吉に向かい、忍熊皇子軍が逃げると、紀伊国の日高に誉田別皇子を迎えに行き、紀の川まで戻ってきて、小竹宮で軍備を整えました。

一方、忍熊皇子軍は宇治へ軍を引いています。なぜ宇治かというと、仲哀天皇が下関に遷座する前の宮である近江の志賀高穴穂宮が本拠だったからだと推測します。

ですので、皇后軍は宇治に向けて出発します。紀の川・吉野川を遡り、五條から御所・葛城を通って、一気に奈良盆地を北上。平城山を越えて山背国に入った所で鋭気を養い、おもむろに木津川沿いを北へ進み、宇治川へと軍を進めてます。

忍熊皇子は大和国に軍を残していなかったのでしょうか。おそらく大和は、神功皇后と誉田別命を支持する勢力に占められていたのでしょう。

武振熊(たけふるくま)

武振熊は、和珥氏の遠祖。

和珥氏は奈良盆地の東北部を勢力範囲とした古代豪族です。その中心は櫟本あたり。西名阪道路の天理インターの北側です。天理スタミナラーメンの本店がある所です。

和珥氏系図によると、武振熊は、崇神天皇の御代に起こった「武埴安の反乱」において、討伐軍の将軍の一人として活躍した彦国葺命の曾孫となってます。

仁徳天皇の御代にも、武振熊は、飛騨方面へ怪物退治の将軍として派遣されていますから、和珥氏は大和朝廷の軍事的氏族の位置づけだったのでしょう。

武振熊の子孫は和珥春日氏(のちの春日氏)を名乗り、朝廷の外戚として勢力を伸ばしていくことになります。

武内宿禰の策略

その時、武内宿禰は全軍に椎結をさせて、そして号令し、

「皆の者。控えの弦を髷に隠せ、そして木刀を佩いておけ!」

と命令しました。このようにして皇后の命令を告げると、忍熊王を誘って

「私は、天下を欲しいとは思っていません。幼い王を抱いて、ただただ貴方様に従うばかりでございます。どうして戦わなければならないのでしょう。願わくば、互いに弓矢や武器を捨てて、和睦いたしましょう。貴方様は皇位にお就きください。そして、枕を高くして、専ら万時の政を行ってください。」

と言って、自軍に命じて、弓弦を切り、刀をはずして、河に投げ入れさせました。忍熊王はこの誘いを信じて、自軍に命じて武装を解いて川に投げ捨て、弓弦を切らせました。

待ってましたとばかりに武内宿禰は全軍に命令して、控えの弦を弓に張らせて、真剣を佩かせて河を渡って進軍しました。

忍熊王は騙されたことを知り、倉見別と五十狹茅宿禰に

「騙された!今はもう控えの武器がない。どううして戦えというのだ!」

と言って、退却しました。

 原 文

時武內宿禰、令三軍悉令椎結、因以號令曰「各以儲弦藏于髮中、且佩木刀。」既而乃舉皇后之命、誘忍熊王曰「吾勿貧天下、唯懷幼王從君王者也。豈有距戰耶、願共絶弦捨兵、與連和焉。然則、君王登天業、以安席高枕、專制萬機。」則顯令軍中悉斷弦解刀、投於河水。忍熊王信其誘言、悉令軍衆解兵投河水而斷弦。爰武內宿禰、令三軍出儲弦更張、以佩眞刀、度河而進之。忍熊王知被欺、謂倉見別・五十狹茅宿禰曰「吾既被欺、今無儲兵、豈可得戰乎。」曳兵稍退。

 ひとことメモ

椎結(ついけい)

椎結とは古代の髪型の一種で、髪を後ろにたらして束ねたもの。その中に、弓の弦を隠しておいたということです。

武装を解く

武内宿禰の誘いにのって、忍熊皇子は武装を解きました。

なぜ、そんな簡単に騙される?

忍熊皇子が反乱を起こした張本人ならば、本当に誉田別命と神功皇后を殺してしまおうと思っていたならば、その目的を遂げるまでは絶対に油断をすることはないはずです。

ここで武装を解いたのは、やはり忍熊皇子側の方が正規軍だったからではないかと思うのです。神功皇后側が反乱軍だった。。。反乱軍が降参してきたから、「よし、わかればよい」的に、正規軍は矛を収めた。

といった具合に想像してみました。

もっと想像を膨らますと、忍熊皇子は「まさか自分が殺されるようなことは無いだろう」と思っていた?ボンボンですし。

いや、実は忍熊皇子は天皇だったのかも。。。

 

忍坂王の最期

武内宿禰は精兵を出して追撃し、逢坂(おふさか)で出会ったので撃破しました。そんなことで、この地を逢坂と呼ぶのです。

軍勢は敗走し、狭狭浪(ささなみ)の栗林(くるす)で多くが斬られ、、血が栗林に溢れました。これを嫌って今に至るまで、この栗林の木の実は御所には献上させないのです。

とうとう忍熊王は逃げ場所を失い、五十狭茅宿禰を呼んで詠んだ歌。

さあ吾が将軍、五十狭茅宿禰よ。武内宿禰軍の頭槌で痛手を受けないように、カイツブリのように水に潜ってしまおう。

そして、五十狭茅宿禰と共に瀬田の渡しに沈んで死にました。この時、武内宿禰が詠んだ歌は、

淡海の海の瀬田の渡しから、水に潜った鳥が見えなくなったので、腹立たしいことよ

さて、二人の遺体を捜したのですが見つかりませんでした。しかし、数日後に宇治川で見つかりましあた。そこで、武内宿禰が、また詠んだ歌

淡海の海の瀬田の渡しで、水に潜った鳥は、田上を過ぎて、宇治で捕まえた

 原 文

時武內宿禰、令三軍悉令椎結、因以號令曰「各以儲弦藏于髮中、且佩木刀。」既而乃舉皇后之命、誘忍熊王曰「吾勿貧天下、唯懷幼王從君王者也。豈有距戰耶、願共絶弦捨兵、與連和焉。然則、君王登天業、以安席高枕、專制萬機。」則顯令軍中悉斷弦解刀、投於河水。忍熊王信其誘言、悉令軍衆解兵投河水而斷弦。爰武內宿禰、令三軍出儲弦更張、以佩眞刀、度河而進之。忍熊王知被欺、謂倉見別・五十狹茅宿禰曰「吾既被欺、今無儲兵、豈可得戰乎。」曳兵稍退。

 ひとことメモ

逢坂・栗林・瀬田

逢坂は「おおさか」と読みます。京都市と大津市の境目に「逢坂山関址」があります。

栗林は「くるす」と読みます。大津市膳所に比定されています。

瀬田は、琵琶湖から流れ出る唯一の川「瀬田川」の渡しです。今、瀬田の唐橋がある所かな?

何故に、瀬田へ向かったのか

宇治で惨敗した押熊皇子は、山科から逢坂を越えて近江の志賀高穴穂宮に逃げようと思ったのでしょうか。逢坂で見つかって追い討ちをかけられ、大急ぎで山を降りました。

降りた所から北に走れば志賀高穴穂宮に入れますが、逆方向の膳所方面に進んだということは、東国へ逃げようとしたのでしょうか。しかし、瀬田川で立ち往生するうちに追手が迫り、万事休すとなりました。

もしかしたら、神功皇后の故郷である敦賀方面から別動隊が動いていて、既に高穴穂宮を占拠していた可能性もありますね。

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