日本書紀|神功皇后⑪|仲哀天皇陵・葛城四邑の漢人

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仲哀天皇の葬儀、立太子、新宮

十月二日 群臣は皇后を尊びて、皇太后(おほきさき)と申し上げました。この年は太歳辛巳(かのとのみ)でした。そして、この年を摂政元年としました。

神功2年(202年)

十一月八日 仲哀天皇を河内国の長野陵(ながののみささぎ)に埋葬申し上げました。

神功3年(203年)

正月三日 誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を皇太子とされました。そして、磐余(いわれ)に都を造りました。これを若櫻宮(わかさくらのみや)といいます

 原 文

冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛巳、則爲攝政元年。

二年冬十一月丁亥朔甲午、葬天皇於河內國長野陵。

三年春正月丙戌朔戊子、立譽田別皇子爲皇太子、因以都於磐余。是謂若櫻宮。

 ひとことメモ

長野陵

大阪府藤井寺市に「岡ミサンザイ古墳」があります。世界遺産に認定された「古市古墳群」を構成する古墳の一つで、墳丘の全長が245mと、全国16位の大きさを誇る前方後円墳です。

宮内庁はこの古墳を「恵我長野西陵」として仲哀天皇陵に治定しましたが、実際の埋葬者はわかっていません。雄略天皇の御陵では?という説もあります。

この古墳は、葺石をやめたこと、横穴式石室を導入したことなど、それまでの古墳とは一線を画す画期的な古墳らしいです。

この頃に、国体に何か大きな変動があったのではないか?と想像させる古墳です。

若櫻宮

若櫻宮は、奈良県桜井市大字池之内字宮地にある「稚櫻神社」の場所にあったとされます。

それはそれとして、磐余は神武天皇と関係深い地名です。

私は、神功皇后と押熊皇子の戦いは、神武が造った葛城王朝と、崇神が造った三輪王朝の戦いなのかも、と述べました。

そういう意味で、磐余に宮を造営したのは、葛城王朝の復権を果たした象徴なのでは?と思うのです。

 

新羅王、人質奪還作戦を企てる。

神功5年(205年)

三月七日 新羅王が、汙禮斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)らを派遣して朝貢しました。これは、先に人質に出した微叱許智伐旱(みしこちほつかん)の奪還を目論んでのことでした。

それで、許智伐旱(こちほつかん)に頼んで欺かせ、

「使者の汙禮斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)らが、『我が王は、私が久しく帰らないので、私の妻子一家を宮奴にした。』と言ってます。願わくば、暫く国に帰って、真実を確かめさせていただきたいのですが。」

と申し上げました。皇太后は、これを聴き届け、葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)を副えて帰国させました。

 原 文

五年春三月癸卯朔己酉、新羅王遣汙禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等朝貢、仍有返先質微叱許智伐旱之情、是以、誂許智伐旱而紿之曰「使者汙禮斯伐・毛麻利叱智等、告臣曰『我王、以坐臣久不還而悉沒妻子爲孥。』冀、蹔還本土知虛實而請焉。」皇太后、則聽之、因以、副葛城襲津彥而遣之。

 ひとことメモ

葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)

古事記によると、葛城襲津彦は、武内宿禰の第八子で男子の中では六番目の子。

現在の御所市、葛城市あたりを本拠とした豪族の首長で、その墳墓ではないかとされる「室宮山古墳」は全国18位、葛城地方では最大規模の前方後円墳です。

葛城襲津彦の娘「磐之媛命」が仁徳天皇の皇后となり、履中天皇・反正天皇・允恭天皇を生みました。

 

葛城襲津彦、捕虜を連れ帰る

対馬に到着して、鉏海水門(さびのうみのみなと)で宿泊しました。この時、新羅の使者の毛麻利叱智(もまりしち)らは、こっそりと船と水夫を分けて、それに微叱旱岐(みしかんき)を乗せて、新羅に逃がしました。

蒭靈(わらにんぎょう)を作って、微叱許智(みしこち)の床に置いて、病人と騙して、襲津彦(そつひこ)に、

「微叱許智が、突然病気になり、死にそうです。」

と告げた。襲津彦が、使者に命じて病人を診させると、嘘だと解り、新羅の使者三人を捕え、檻に入れて、焼き殺しました。

その後、新羅に渡り、蹈鞴津(たたらのつ)に泊まり、草羅城(さわらのさし)を陥落させて、帰国しました。この時の捕虜らが、今の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)の四邑の漢人らの始祖です。

 原 文

共到對馬宿于鉏海水門、時新羅使者毛麻利叱智等、竊分船及水手、載微叱旱岐、令逃於新羅。乃造蒭靈、置微叱許智之床、詳爲病者、告襲津彥曰「微叱許智、忽病之將死。」襲津彥、使人令看病者、既知欺而捉新羅使者三人、納檻中以火焚而殺。乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。

 ひとことメモ

蹈鞴津・草羅城

蹈鞴津は、今の釜山市の多大浦で、草羅城は、そこから北へ30kmほどの内陸部にある梁山市だそうです。

漢人四邑

草羅城の戦いで投降した人々を捕虜として日本に連れ帰り、葛城地方の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)に住まわせました。

橿原考古学研究所によると、

  • 桑原は、今の郡海橋あたり
  • 佐糜は、今の東佐味・西佐味あたり
  • 高宮は、今の南郷遺跡あたり
  • 忍海は、今の忍海

とのこと。

これらの漢人たちは、製鉄技術に優れていたらしいです。葛城襲津彦は、これらの技術者集団を葛城地方に住まわせることで、葛城氏の発展のためだけ?に活用したのでしょう。

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