日本書紀|神功皇后⑬|魏志における倭女王とは・斯摩宿禰が卓淳国へ

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魏志に、、、

神功39年(239年)

この年は太歳己未(つちのとのひつじ)でした。

魏志に、

明帝の景初三年六月に倭の女王が、大夫の難斗米(なんとまい)らを遣して、郡に至り、天子のいる洛陽へ案内してもらうことを求めて朝献した。そこで、太守の鄧夏(とうか)は役人を遣わして、洛陽に案内させた。

と書かれています

神功40年(240年)

魏志に、

「正始元年、建中校尉梯携らを派遣して、詔書・印綬を奉りて、倭国に至らしめた。」

と書かれています

神功43年(243年)

魏志に、

「正始四年、倭王、また使者の伊声者(いせいしゃ)・掖耶約(やややく)ら八人を派遣して品々を献上した。」

と書かれています

 原 文

卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」

卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

 ひとことメモ

「景初三年に倭の女王が、、、」とあります。その「倭の女王」とは卑弥呼のことで間違いないそうです。

日本書記の編纂者が、ここで魏志の記事を挿入してきたということは、編纂者は ”卑弥呼=神功皇后” と臭わしておきたかったから。

臭わしておきたかった理由は、日本の歴史を長く見せたかったからです。

一説には、実際には邪馬台国の卑弥呼(ヒメコ)は高天原の天照大神(ヒメコ)で、それを内外に認めると、その五代孫の神武から始まる日本の皇統は、中国と比較して、とても短いものになってしまうからだといいます。

しかし、倭の女王とは記載していますが、卑弥呼という文字は使ってません。卑弥呼という文字を使わなかった理由は、臭わすだけにしておきたかったから。

その理由は、卑弥呼が魏から倭の国王として認めてもらったという事実があるからです。神功皇后が卑弥呼であると明記すると、日本が中国の属国だったと見なされかねないからということらしいです。

面白い説だと思いました。

卓淳国(とくじゅんのくに)

神功46年(246年)

三月一日 斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳国(とくじゅんのくに)に派遣しました。 斯麻宿禰者の姓(かばね)は、はっきりとは分からない

この時、卓淳王の末錦旱岐(マキムカンキ)が、斯摩宿禰に、

「甲子(きのえのね)の年の七月に、百済人の久氐(クテ)・彌州流(ミツル)・莫古(マコ)の三人が、我が国に来て、

『百済王は、東方に日本という貴き国があると聞いて、我らを派遣して朝貢することにしました。そこで、道を探して、この国までやってきました。

もし、道を教えていただき、通行を許可頂ければ、我が王は、必ず深い徳ある君主だと思うでしょう。』

と我が君に言いました。

そのとき、我が王は百済の久氐らに、

以前から、東の方に貴き国があるとは聞いてはいたが、まだ、通行したことがないので、その道は知らない。

ただ、海は遠くて波が荒い。だから、大船の乗っても、なんとか行けるかどうか。もし、途中に港があったとしても、なかなか難しいぞ。』

と答えました。すると、久氐らは

『そうでしたら、今回は行くことは出来ないですね。一度帰って、大型船を準備して、それから行こうと思います。』

と言い、さらに

『もし、貴い国の使者が来られたならば、必ず我国にもお知らせください』

と付け加えて、戻っていきました。」

と言いました。

そこで、斯摩宿禰は、直ぐに、家臣の爾波移(にはや)と卓淳人の過古(ワコ)の二人を、百済国に派遣し、その王を慰労しました。

百済の肖古王(ショウコウ王)は、深く喜んで、二人を厚く持て成しました。そして、五色の綵絹(あやどりのきぬ)各一匹と角の弓箭そして鐵鋌(てつののべぼう)40枚を爾波移(にはや)に贈りました。

更に、宝の蔵を開けて、珍しい宝物を見せて、

「我が国には、多くの珍しい宝があります。貴国に献上しようと思えども、その道がわからなかったので、実行できませんでした。しかし、今、使者の方にお預けして、献上いたします。」

と言いました。そこで、爾波移(にはや)は戻り、事の次第を卓淳国にいる志摩宿禰に報告しました。そこで、志摩宿禰は卓淳から帰国しました。

 原 文

卌六年春三月乙亥朔、遣斯摩宿禰、于卓淳國。斯麻宿禰者、不知何姓人也。於是、卓淳王末錦旱岐、告斯摩宿禰曰「甲子年七月中、百濟人久氐・彌州流・莫古三人、到於我土曰『百濟王、聞東方有日本貴國、而遣臣等、令朝其貴國。故、求道路以至于斯土。若能教臣等令通道路、則我王必深德君王。』時、謂久氐等曰『本聞東有貴國、然未曾有通、不知其道。唯海遠浪嶮、則乘大船、僅可得通。若雖有路津、何以得達耶。』於是、久氐等曰『然卽、當今不得通也。不若更還之備船舶而後通矣。』仍曰『若有貴國使人來、必應告吾國。』如此乃還。」

爰斯摩宿禰、卽以傔人爾波移與卓淳人過古二人、遣于百濟國、慰勞其王。時、百濟肖古王、深之歡喜而厚遇焉、仍以五色綵絹各一匹・及角弓箭・幷鐵鋌卌枚、幣爾波移、便復開寶藏、以示諸珍異曰「吾國多有是珍寶、欲貢貴國、不知道路、有志無從。然猶今付使者、尋貢獻耳。」於是爾波移、奉事而還告志摩宿禰。便自卓淳還之也。

 ひとことメモ

卓淳国(とくじゅんのくに)は、百済と新羅の間にあった小国群の総称「伽耶」の中の一つの国。

今の大邱(テグ)が卓淳国だとか。後に新羅に征服されます。

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