日本書紀|神功皇后⑭|新羅が百済の貢物を奪った件で千熊長彦が活躍

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新羅が百済の貢物を奪う

神功47年(247年)

四月 百済王は、久氐(クテ)・彌州流(ミツル)・莫古(マコ)を使いとして朝貢させました。この時、新羅国の調使も久氐と一緒にやって来ました。

皇太后と太子の誉田別尊は、大変喜ばれて、

「先王望んでおられた国の人が、今、来朝した。天皇がお会いできなかったことは、痛恨の極みである。」

とおっしゃり、群臣は皆涙を流しました。

さて、二国の貢物を調べると、新羅の貢物には珍しいものがたいへん多く、百済の貢物は少なくて粗末でいいものありませんでした。そこで、久氐らに、

「百済の貢物が、新羅に及ばないのは何故だ。」

と尋ねると、久氐らは、

「私どもは、道に迷って、沙比の新羅に着いてしまいました。すると、新羅人は私どもを捕えて牢屋に監禁しました。三か月後には殺すつもりでした。

そこで、私どもは天に向かって呪詛しました。新羅人は呪詛を恐れて、私どもを殺しませんでしたが、私どもの貢物を奪い、それを自分の国の貢物とし、新羅の安物と取り換えて我が国の貢物としたのです。

おまけに『もし、このことを漏らしたならば、国に戻る時にお前らを必ず殺してやる!』と言いました。なので、私どもは従うしかなかったのです。

そうすることで、辛うじて天朝に参上することができました。」

と申し上げました。

 原 文

卌七年夏四月、百濟王、使久氐・彌州流・莫古、令朝貢。時、新羅國調使、與久氐共詣。於是、皇太后・太子譽田別尊、大歡喜之曰「先王所望國人、今來朝之。痛哉、不逮于天皇矣。」群臣皆莫不流涕。仍檢校二國之貢物、於是、新羅貢物者珍異甚多、百濟貢物者少賤不良。便問久氐等曰「百濟貢物不及新羅、奈之何。」對曰「臣等、失道至沙比新羅、則新羅人捕臣等禁囹圄、經三月而欲殺。時久氐等、向天而呪詛之、新羅人怖其呪詛而不殺、則奪我貢物因以爲己國之貢物、以新羅賤物相易爲臣國之貢物。謂臣等曰『若誤此辭者、及于還日當殺汝等。』故、久氐等恐怖從耳。是以、僅得達于天朝。」

 ひとことメモ

特にございません。

しかし、新羅という国は、なんとまあひどい国でしょうか。

 

千熊長彦を新羅へ派遣

皇太后と誉田別尊は、新羅の使者を叱責し、天神に祈って

「誰れを百済に遣わして、事の真相を調べさせたらいでしょうか。誰れを新羅に遣わして、其の罪を尋問させたらよろしいでしょうか。」

とおっしゃいました。天神は

「武內宿禰に計画を立てさせよ。そして、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者とするならば、願はかなうだろう。」

とおっしゃられました。

千熊長彦は、その姓(かばね)がよくわかっていません。ある話では、武蔵国の人で、今は額田部槻本首(ぬかたべのつきのもとのおびと)らの始祖だといいます。百済記に「職麻那々加比跪(ちくまなながひこ)」とあるのは、思うに、この人のことであろうか

そこで、千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献上品の一件を責めました。

 原 文

時、皇太后・譽田別尊、責新羅使者、因以、祈天神曰「當遣誰人於百濟、將檢事之虛實。當遣誰人於新羅、將推問其罪。」便天神誨之曰「令武內宿禰行議。因以千熊長彥爲使者、當如所願。」千熊長彥者、分明不知其姓人。一云「武藏國人、今是額田部槻本首等之始祖也。」百濟記云「職麻那々加比跪」者、蓋是歟也。於是、遣千熊長彥于新羅、責以濫百濟之獻物。

 ひとことメモ

千熊長彦(ちくまながひこ)

ここまで、新羅や百済と日本との間を行ったり来たりしてきた、いわゆる外交官的な、いや全権大使的な役割を果たしてきた千熊長彦なのに、その姓が判らないと書かれています。

千熊長彦は、日本国内では知られていなかったが、百済記などの朝鮮側の史書に「職麻那那加比跪」(ちくまなながひこ)という倭人が登場することを知った日本書記編纂者が、「千熊長彦」という和名をつけて書き記した、、、と見るべきでしょうね。

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