日本書紀|神功皇后⑰|沙至比跪の不義・神功皇后の崩御

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沙至比跪(さちひこ)の不義

神功62年 壬午(みずのえのうま)(262年)

新羅が貢物をしてきませんでした。

その年に 襲津彦(そつひこ)を遣わして、新羅を討たせました。

百済記には、、、

壬午(みずのえのうま)の年、新羅は貴い国に朝貢しなかった。貴い国は、沙至比跪(さちひこ)を派遣して討伐させた。

新羅人は美女二人を美しく着飾らして、港で出迎えさせ、誘惑させました。沙至比跪は、その美女を受け入れ、新羅を討たずに加羅国(からのくに)を討伐した。

加羅国の王の己本旱岐(こほかんき)と子の百久至(はくくち)・阿首至(あしゅら)・国沙利(こくさり)・伊羅麻酒(いらます)・爾汶至(にもんち)らは、人民を連れて、百済に逃げて来た。

百済はそれらの人々を厚遇した。加羅国王の妹の既殿至(きでんち)が、大倭(やまと)に参内して、

「天皇は沙至比跪を派遣されて、新羅を討伐されました。しかるに、新羅の美女に誘惑されて、新羅を討伐せずに、反対に、我が国を滅ぼしました。その為、兄弟・人民は、皆、流浪の身となりました。悲しみを押えておくことができません。ゆえに、謹んで参上いたしました。」

と訴えた。天皇は激怒して、直ぐに、木羅斤資(もくらこんき)を派遣し、軍勢を加羅に集めて、加羅の国体を回復させた。

と書かれています。

 原 文

百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。貴國遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅國。加羅國王己本旱岐・及兒百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至、向大倭啓云「天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討、反滅我國。兄弟人民、皆爲流沈、不任憂思。故、以來啓。」天皇大怒、卽遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。

 ひとことメモ

本文は「襲津彦を新羅に派遣した。」までで、そのあとは百済記を引用しています。

「沙至比跪という人が新羅を討つために倭国からやってきたが、美女に惑わされたために新羅を討たずに加羅を討った。」

という、なんとも情けない記事です。

魏志を挿入したり、百済記を挿入したりしている箇所は、年代合わせの意味合いが強いと考えます。

日本書記は、履中天皇までの歴代天皇の在位を伸ばすことで、国の歴史を長く見せようとしているようです。一説には、神武天皇の建国年代は史実(あくまでも予測ですが)と8世紀もの開きがあるとか。

それほどまでに「日本は中国にも引けをとらない歴史ある立派な国である」ことを主張したかったんですね。

しかしそのためには、中国や朝鮮半島の史書との整合性を取らないといけません。

そこで、魏志を挿入することで卑弥呼が神功皇后であるように臭わせ、今ここでは、百済記の沙至比跪が襲津彦であるように臭わせることで整合性を取ろうとしているのでしょう。

となれば、襲津彦は沙至比跪では無い!と言えます。

 

沙至比跪(さちひこ)の最期

ある話では、、、

沙至比跪(さちひこ)は、天皇がお怒りであることを知って、日本に帰国せずに潜伏しました。

その妹は皇宮にお仕えしていたので、比跪(ひこ)は、密かに妹に使いを出して、天皇の怒りが解けるかどうか調べさせました。

その為に、妹は夢の話と称して、天皇に、

「昨夜、沙至比跪の夢を見ました」

と申し上げました。すると、天皇は激怒して、

「比跪(ひこ)は何しに来たのか!」

とおっしゃいました。妹は、この天皇のお言葉を報告しました。すると、比跪(ひこ)は、許されないと知り、石穴に入って自死しました。

と伝わります。

 原 文

一云、沙至比跪、知天皇怒、不敢公還、乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者、比跪密遣使人問天皇怒解不、妹乃託夢言「今夜夢見沙至比跪。」天皇大怒云「比跪何敢來。」妹、以皇言報之。比跪、知不兔、入石穴而死也。

 ひとことメモ

沙至比跪の妹が神功皇后に仕えていたとあります。襲津彦に妹はいたでしょうか。

日本書記には登場しませんが、古事記によると妹ではなく姉が二人います。久米能摩伊刀比売と怒能伊呂比売(ののいろひめ)です。

そこで、古事記は姉と妹と間違った?と考えれば、沙至比跪と襲津彦は同一人物かもしれないとなります。

きっと、「かもしれない」という程度の臭わせ方でよかったんですよ。年代の整合性が取れればそれでよかったんです。

となれば、襲津彦は沙至比跪では無い!と言えます。

 

神功皇后、崩御

神功64年(264年)

百済王の貴那王(くいすおう)が薨りました。王子の枕流王(とむるおう)が王となりました。

神功65年(265年)

百済王の枕流王(とむるおう)が薨りました。王子の阿花(あか)は年少でした。それで、叔父の辰斯(しんし)が位を奪って王となりました。

神功66年(266年)

この年は、晋(しん)の武帝(ぶてい)の泰初(たいしょ)の二年(266年)です。晋の起居注(ききょのちゅう)に、「武帝の泰初二年十月に、倭の女王が通訳を重ねて貢献した。」と書かれています

神功69年(269年)

四月十七日 神功皇后が稚櫻宮で崩御されました。享年100歳でした。

十月十五日 狹城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に埋葬申し上げました。

この日、皇太后を追尊して、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と申し上げました。

この年の太歳は、己丑(つちのとのうし)でした。

 原 文

六十四年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。

六十五年、百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王。

六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」

六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚櫻宮。時年一百歲。冬十月戊午朔壬申、葬狹城盾列陵。是日、追尊皇太后、曰氣長足姬尊。是年也、太歲己丑。

 ひとことメモ

狭城盾列陵

奈良県奈良市山陵町にある「五社神古墳」が「狭城盾列池上陵」という名称で神功皇后陵に治定されています。長さ267mの前方後円墳で、全国12位の規模を誇ります。

 

 

日本書紀巻第九  完

 

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