日本書紀|神功皇后②|羽白熊鷲を討伐・梅豆邏国の鮎釣り

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羽白熊鷲を討伐

また、荷持田村(のとりたのむら)に、羽白熊鷲(はしろくまわし)という者がいました。この人は剛健で、さらには体に翼があり、空高く飛ぶことが出来ました。皇命に従わず、人民から略奪を重ねていました。

同月十七日 皇后が熊鷲を討とうと思い、橿日宮から松狭宮(まつをのみや)に遷られました。その時、突然に旋風(つむじかぜ)が起こって、御笠(みかさ)を吹き飛ばしたので、時の人はそこを御笠(みかさ)と呼びました。

同月二十日 層増岐野(そそきの)に至り、兵を挙げて羽白熊鷲を壊滅せしめました。

天皇は側近に、

「熊鷲を討ち取り、我が心は安らかになった。」

とおっしゃられたので、そこを安(やす)と呼びました。

同月二十五日 山門縣(やまとのあがた)に回り、土蜘蛛の田油津媛(たぶらつのひめ)を誅刹しました。田油津媛の兄の夏羽が、軍を興してやってきましたが、妹が誅殺されたことを知り、逃げました。

 原 文

且荷持田村荷持、此云能登利  有羽白熊鷲者、其爲人强健、亦身有翼、能飛以高翔、是以、不從皇命。毎略盜人民。

戊子、皇后、欲擊熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮。時、飄風忽起、御笠墮風、故時人號其處曰御笠也。辛卯、至層増岐野、卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。謂左右曰「取得熊鷲、我心則安。」故號其處曰安也。丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。時、田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來、然聞其妹被誅而逃之。

 ひとことメモ

羽白熊鷲討伐の足跡

皇后軍は、橿日宮を出発して、御笠に至り松狭宮で軍議や戦準備をしたのでしょう。

御笠

御笠は、今の大野城市山田あたりといわれています。御笠川にその名を残しています。

松狭宮

松狭宮は、今の太宰府政庁跡という説や、松狭八幡宮あたりという説があります。

ところが松狭八幡宮あたりは、熊鷲の勢力範囲との境目、あるいは真っただ中に位置します。そんな一触即発な場所に、皇后が身を置くとは思えません。宮は安全地帯になければならんと思うのです。

というわけで、太宰府政庁跡の方が自然だと思います。

層増岐野

皇軍は松狭宮を出陣して、荷持田村へ向かって進軍。一方、荷持田村の熊鷲隊郡も山から降りてて、途中の層増岐野で両軍が激突。ここで熊鷲軍は敗戦し、皇后が「安らかになった」といったので、この地を「安」と呼ぶようになった。

ということですから、「層増岐野」は「安」という理解となりましょう。

「安」は、旧朝倉郡夜須町あたりのこと。市町村合併で三輪町と合併して筑前町となりました。安野・東小田・篠隈あたりが旧夜須町だと思われます。

すなわち、「層増岐野」もここと言えましょう。

荷持田村

羽白熊鷲の本拠地「荷持田村」とは、古処山の麓の朝倉市秋月野鳥あたりという説と、荷原川と佐田川にはさまれた一角の朝倉市三奈木という説があります。

羽白熊鷲は白髪山(現:古処山)を本拠としていたという伝承もあり、近くには秋月城跡もあります。地勢的にそういう場所なんだろうと考えますと、朝倉市秋月野鳥説が有利なような気がします。

一方、三奈木の北と南に「美奈宜神社」が鎮座します。北の「美奈宜神社」には皇祖「天照大神」が祀られ、南の「美奈宜神社」には新羅系というか国津神系の「素戔嗚尊」が祀られています。

ヤマト王権による統治のシンボルと、熊鷲鎮魂のシンボルとして、この二つの「美奈宜神社」が創建されたように思えてなりません。

そこで、マップに落とし込んだところ、なんと秋月と三奈木は山を越えて並んでいることがわかりました。どちらも荷持田村だったではないでしょうか。平地の拠点と、山地の拠点、ってな感じで。

田油津媛討伐の足跡

山門縣

山門縣は昔の山門郡のこととされます。今の柳川市・みやま市あたりですね。

実はこの山門郡は、古くから邪馬台国の候補地とされてきました。山門は「やまと」と読むからだそうです。

みやま市高瀬町大草に蜘蛛塚と呼ばれる古墳があります。これが田油津媛の墳墓ではないかといわれています。

田油津媛

土蜘蛛の女性首長です。

田油津媛の「たぶらつ」は、「たぶらかす」という意味。魏志倭人伝は、卑弥呼について、「鬼道」を使って民衆を惑わしたと述べています。似てますね。

 

皇后、鮎を釣る

四月三日 皇后は、北にある、火前国(ひのみちのくちのくに)の松浦縣(まつらのあがた)に到着され、玉嶋里(たましまのさと)の小河のほとりで食事をされました。

その際に、針を曲げて釣針にして、米粒を餌にし、裳の伊都を抜き取って釣り糸にして、河中の岩に乗り釣針を投げ入れて、祈(うけい)をされて、

「西の財宝の国を得たいと思う。もし、その事が成就するならば、川の魚が釣針を呑み込む。」

とおっしゃって、竿を上げたところ、鮎が釣れました。この時、皇后が

「珍しいものだ。」

とおっしゃったので、時の人はそこを梅豆邏国(めづらのくに)と呼びました。今、松浦(まつら)というのはそれが訛ったものです。

そんなこんなで、この国の女性は、毎年四月の上旬になると、河に釣針を投げ込み、鮎を釣る風習が、今も続いています。ただ、男性は、釣ろうとしても釣れません。

 原 文

夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側。於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上而投鉤祈之曰「朕、西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。」因以舉竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰「希見物也。希見、此云梅豆邏志。」故時人號其處曰梅豆羅國、今謂松浦訛焉。是以、其國女人、毎當四月上旬、以鉤投河中、捕年魚、於今不絶、唯男夫雖釣、以不能獲魚。

 ひとことメモ

火前国の松浦縣の玉嶋里

火前国は肥前国。ですから、今の対馬や壱岐を除く長崎県と佐賀県です。その北岸全域が松浦郡なのですが、ここで登場した松浦縣はというと、佐賀県の唐津市あたりだとされています。

その中の玉嶋里はというと、佐賀県唐津市浜玉町南山に玉嶋神社があります。祭神は神功皇后で、まさに川の畔の丘の上に鎮座しています。

古事記では、この鮎釣り逸話は、新羅討伐から帰還して皇子を出産した後の、ホッコリした場面で登場します。

 

皇后、裂田溝を通す

このようにして、皇后は神の教えが霊験あらたかであることを知り、なお一層、天神地祇の祭祀を行って、自ら西を征伐しようと思われました。

そこで、神田を定めて耕し、儺河(那珂川)の水を引いて神田を潤すために溝を掘ろうと思いました。しかし、迹驚岡(とどろきのおか)まで掘ったところで大きな岩に塞がれて、そこから溝を穿つことが出来ませんでした。

皇后は武内宿禰をお召しになり、剣と鏡を捧げ持ち、天神地祇に溝を通せるよう求めてお祈りをさせました。すると、突然落雷があり、岩を砕き、水が通りました。

そこで時の人は、その溝を裂田溝(さくたのうなで)と呼びました。

 原 文

既而皇后、則識神教有驗、更祭祀神祗、躬欲西征。爰定神田而佃之、時引儺河水、欲潤神田而掘溝。及于迹驚岡、大磐塞之、不得穿溝。皇后、召武內宿禰、捧劒鏡令禱祈神祗而求通溝、則當時、雷電霹靂、蹴裂其磐、令通水、故時人號其溝曰裂田溝也。

 ひとことメモ

裂田の溝

裂田の溝は現存する日本最古の用水路といわれ、今も福岡県那珂川市大字山田の水田地帯を流れ、現役の用水路として活躍しています。

カワセミやホタルなんかも生息する、綺麗な川だそうですよ。

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