日本書紀|神功皇后③|新羅征伐の詔

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皇后、西征の詔を発す

皇后は帰られて橿日浦に出向いて、髪を解いて海に臨み、

「私は、神祗のお教えを受けて、皇祖の霊に頼り、滄海(あおきうなばら)を渡り、自ら西を征伐しようと思う。

そこで、頭を海水で漱ぐこととする。もしも霊験があるならば、髪よ、自然に二つに分かれよ。」

とおっしゃられ、海に入って洗われますと、髪が自然に分かれました。皇后は、それを結んで髻(みずら)にされ、群臣に、

「兵を興して動員するのは、国の大事である。安危も勝敗も、これにかかっておる。

今、まさに征伐しようとしている。事は群臣に任せた場合、もし失敗したときは群臣の罪となり、これでは、はなはだ心が痛む。

私は、女性であり、不肖の身でもあるが、暫くは男の姿となり、雄々しく軍略を起こすことにする。

上は天神地祇の霊威をいただき、下は群臣の助けを借りて、荒波を渡り、船団を整えて、財土を求めよう。

成功すれば群臣も共に功績となる。失敗すれば、それは私一人の罪とする。このように決意したので、共に協議すべし。」

とおっしゃられました。

すると群臣は皆、

「皇后は、天下のために国家を安らかにする計画をお示しになられ、なおかつ罪は家臣に及ばないとおっしゃいました。謹んでご詔をお受けいたします。」

とお答えしました。

 原 文

皇后還詣橿日浦、解髮臨海曰「吾、被神祗之教、頼皇祖之靈、浮渉滄海、躬欲西征。是以、令頭滌海水、若有驗者、髮自分爲兩。」卽入海洗之、髮自分也。皇后、便結分髮而爲髻、因以謂群臣曰「夫興師動衆、國之大事。安危成敗、必在於斯。今有所征伐、以事付群臣。若事不成者、罪有於群臣、是甚傷焉。吾婦女之、加以不肖、然暫假男貌、强起雄略。上蒙神祗之靈、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者群臣共有功、事不就者吾獨有罪、既有此意、其共議之。」群臣皆曰「皇后、爲天下計所以安宗廟社稷、且罪不及于臣下。頓首奉詔。」

 ひとことメモ

橿日浦

香椎宮(橿日宮)の北西の海岸近くに、香椎宮の鳥居が立ってます。昔はもちろん海の中。そこらへんが橿日浦でした。

髪を鬟(みずら)に結う

これは、髪を真ん中から左右に分けて、それぞれを耳の横に束ねる髪型で、古代の男性の髪型です。

女性である神功皇后が鬟に結うことが、戦への決意なのです。

思えば、高天原に登ってくる素戔嗚尊を待ち受けた天照大御神も、鬟に結って、戦装束に身を固めてました。

理想のリーダー像

そして、群臣に対して演説した内容が、現代においても理想のリーダー像と言えるような内容です。

この戦は国の盛衰に係る一大事である!女である私も男となって頑張る!勝てば皆の手柄、負ければ私の責任。皆に責任を押し付けるようなことはしませんよ!

いいじゃないですか。編纂当時(奈良時代)の理想のリーダー観は、今と変わらなかったんですね。

 

皇后、軍律を説く

九月十日 諸国に命じて、船舶を集め兵士の訓練を行いましたが、兵士の集まりが悪かったので、皇后は、

「きっと、神の御心に違いない。」

とおっしゃり、すぐに大三輪社を立てて刀と鉾を奉ると、兵士たちは自然に集まってきました。

そこで、吾瓮(あへ)の海人の烏摩呂(をまろ)を遣わして、西海に国があるか調べさせましたが、

「国は見えませんでした。」

とのことでした。

また、磯鹿の海人の名を草という者に命じて視察させました。

数日して帰ってきて、

「北西に山があり、雲が横たわっています。きっとそこに国があると思われます。」

と報告しました。

そこで、出発の吉日を占ったところ、その日まで、まだ日がありました。そこで皇后は、斧(おの)と鉞(まさかり)をお持ちになり、全軍に、

「金鼓を打つ節が乱れ、軍旗が乱れると、士卒の秩序が整わなくなるものだ。財物を貪り欲深くなり、私事ばかり思い我が家のことを顧みれば、必ずや敵の捕虜となるだろう。

敵が少なくとも軽くみてはならないし、敵が強くてもくじけてはいけない。婦女を犯すものを許してはならない。自から降伏してくる者は殺してはならない。戦に勝てば必ず恩賞を与るが、逃亡したものには必ず罰を与える。」

とおっしゃいました。

 原 文

秋九月庚午朔己卯、令諸國、集船舶練兵甲、時軍卒難集、皇后曰「必神心焉。」則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚。於是、使吾瓮海人烏摩呂、出於西海令察有國耶、還曰「國不見也。」又遣磯鹿海人名草而令視、數日還之曰「西北有山、帶雲横絚。蓋有國乎。」爰卜吉日而臨發、有日。時皇后親執斧鉞、令三軍曰「金鼓無節・旌旗錯亂、則士卒不整。貪財多欲・懷私內顧、必爲敵所虜。其敵少而勿輕、敵强而無屈。則姧暴勿聽、自服勿殺。遂戰勝者必有賞、背走者自有罪。」

 ひとことメモ

大三輪社

大三輪社は、福岡県朝倉市筑前町(旧の夜須町と三輪町が合併)にある「大己貴神社」に比定されています。

羽白熊鷲を討伐して「安らかになった」といったから「安(夜須)」という地名になったとされる場所の東隣です。

ですから、羽白熊鷲を討伐したあと、松狭宮を太宰府政庁跡から松狭八幡宮あたりに移動して滞在し、神田を作って用水路を掘ったり、田油津媛を討伐したりしていたのではないかなと思います。

朝倉市 邪馬台国説

ちなみに、この朝倉市も邪馬台国の候補地となっています。その説では、卑弥呼、台与の時代が終わったあと、朝倉の邪馬台国は東へ移動し、纏向・三輪あたりに移住したのだといいます。

そして、その東への移動が、すなわち神武東征のモデルなのではないかと。

それは、朝倉市を取り巻く周囲の地名と、奈良盆地を取り巻く周囲の地名が酷似しているからというのも、その理由の一つらしい。

しかも、同じ地名というだけでなく、なんとなく同じような位置関係にプロットされるから面白い。

三輪からぐるっと反時計回り的に列記すると、、、(カッコ内は奈良の地名)

  • 三輪
  • 雲堤(雲梯)
  • 筑前高田(大和高田)
  • 長谷山(初瀬山)
  • 朝倉
  • 久留米(久米)
  • 三潴(水間)
  • 香山(香具山)
  • うきは(音羽)
  • 鷹取山(高取山)
  • 星野(吉野)
  • 玖須(国栖)
  • 鳥屋山(鳥見山)
  • 上山田
  • 山田
  • 田原
  • 笠置山
  • 御笠山(三笠山)
  • 平群
  • 池田
  • 三井

皇后、神の守護を得る

そして、神が教えて、

和魂は王の身に付いて御命を守り、荒魂は先鋒となって艦隊を導こう。」

と仰せられました。

皇后は神の教えを得て、これを拝礼し、依網吾彦男垂見(よさみの あびこ をたるみ)を祀りの神主とされました。

この時、皇后は産み月にあたっていましたので、石を取り腰に挟んで、誓約して

「事を終えて帰ってきた日に、ここで生まれますように。」

とおっしゃいました。その石は今、伊覩縣(いとのあがた)の道のほとりにあります。

このようにした後、荒魂をお招きして、軍の先鋒とし、和魂をお招きして、王船の鎮守とされました。

 原 文

既而、神有誨曰「和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船。」和魂、此云珥岐瀰多摩。荒魂、此云阿邏瀰多摩。卽得神教而拜禮之、因以依網吾彥男垂見、爲祭神主。于時也、適當皇后之開胎、皇后則取石插腰而祈之曰「事竟還日、産於茲土。」其石今在于伊都縣道邊。既而則撝荒魂、爲軍先鋒、請和魂、爲王船鎭。

 ひとことメモ

和魂・荒魂

神は二つの側面を持つらしいです。

和魂は優しさ・平和・慈悲・謙遜などの作用を司り、荒魂は勇猛・決断・正義・忍耐などの作用を司るようです。

ですから、先鋒に荒魂、王船に和魂とは理にかなってます。

ちなみに、、、

荒魂については、大物主神が疫病を起こしたように、「祟り」のような恐ろしい要素を含むことも忘れてはいけません。

月延石

神功皇后は、この時妊娠していて、臨月だったとのこと。お腹か腰に石を挟んで冷やすことで、生まれるのを遅らせたといいます。なんと豪快な姫君でしょうか。

今、その月延石と伝わる石が3つあります。

  • 長崎県壱岐市の月讀神社
  • 京都市西京区の月読神社
  • 福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮←これが伊都県の道のほとりにあるという石でしょうか。

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