日本書紀|神功皇后④|新羅征伐・応神天皇の誕生

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皇后、出航す

十月三日 和珥津(わにのつ)から出港されました。この時、風の神が風を起こし、海の神が波を挙げ、海の中の大きい魚が皆浮かんで船を進めました。

大風が順風となり、帆船は波に乗り、梶や櫂を使わずして、新羅に到着しました。

その時、御船を乗せた潮流が、遠く新羅国の中にまで押し寄せました。

このことで、天神地祇がことごとく助けてくださったこと知ることができます。

新羅王は恐れに恐れ、成す術もなく、諸人を集めて、

「新羅を建国してこのかた、海の水が国に乗りあがってきたということなど聞いたことがない。もしかして、天運が尽き、国が海になってしまうのだろうか。」

と言いました。この言葉を言い終わらないうちに、艦隊が海に満ち、軍旗が日に輝き、鼓笛の音が響き渡り、山川をことごとく震わせました。

 原 文

冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時、飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波、不勞㯭楫、便到新羅。時、隨船潮浪遠逮國中、卽知、天神地祇悉助歟。新羅王於是、戰々慄々、厝身無所、則集諸人曰「新羅之建國以來、未嘗聞海水凌國。若天運盡之、國爲海乎。」是言未訖間、船師滿海、旌旗耀日、鼓吹起聲、山川悉振。

 ひとことメモ

和珥津

和珥津は対馬の北端にある港。今、鰐浦という地名として残っています。

ここから朝鮮半島の釜山まで、わずか60km。60kmというと、大阪から琵琶湖ぐらい。意外に近いんですね。

夜には釜山の街の灯りが見えるらしいですよ。

津波

さすがに津波に乗って都まで行けるはずがありませんから、大河を遡って軍勢が押し進む様子を、「津波に乗って」と表現したのかもしれません。

都のあるキョンジュまで遡ることが出来る川といえば「兄山江」。よって、その河口の町であるポハンに上陸したと想像します。

もしかしたら、軍隊を分けて、ウルサンとポハンから同時に進攻したのかもしれないです。

 

新羅王、降参す

新羅王は、遥かにこれを望み、尋常ではない軍団が、我が国を滅ぼそうとしているのだと思い、気を失ってしまいました。暫くして目覚めて

「私は、東に日本という神国があり、そこには天皇という聖王がおられると聞いたことがある。きっとあれは、その国の神兵だろう。どして兵を挙げて防ぐことなどできようか。」

と言って、白旗を上げ自ら降参し、白紐で自分の首を縛り、地図・戸籍を封印して、王船の前に投降しました。そして頭を地につけて、

「今より後は、天地と同じように長く、飼部として、お仕え申し上げます。船の舵を乾かすことなく、春と秋には、馬梳と馬鞭(うまのむち)を献上いたします。また、海路が遠いことを厭うことなく、毎年、男女の調(みつき)を献上いたします。」

と申し上げ、重ねて誓って

「東から出る日が西から出るようにならない限り、阿利那禮河(ありなれがわ)が逆流し、河原の石が天に昇って星にならない限り、春秋の朝貢を欠かし、梳と鞭の貢物を怠ったときには、天神地祇よ、罰を与え給え!」

と申し上げました。

 原 文

新羅王遙望、以爲、非常之兵、將滅己國、讋焉失志。乃今醒之曰「吾聞、東有神國、謂日本。亦有聖王、謂天皇。必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎。」卽素旆而自服、素組以面縛、封圖籍、降於王船之前。因以、叩頭之曰「從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。其不乾船柂而春秋獻馬梳及馬鞭、復不煩海遠以毎年貢男女之調。」則重誓之曰「非東日更出西、且除阿利那禮河返以之逆流及河石昇爲星辰而殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇共討焉。」

 ひとことメモ

こんな具合に、あっさりと新羅を征服することが出来ました。

圖籍を封印する

圖籍は、詳細な国土地図と戸籍のことで、これを封印して相手に引き渡すという行為は、国の支配権を譲渡するというような意味があるようです。

男女の調(みつき)

これは、崇神天皇記にも出てきました。

  • 男の弭調(ゆずはのみつき)・・・動物の肉や皮などから作った物
  • 女の手末調(たなすえのみつき)・・・絹・布などで作った物

決して、男女を献上するというような奴隷的なものではないですよ。

 

皇后、新羅を手中に収める

この時、ある人が、

「新羅王を誅殺したいのですが。」

と言いました。しかし皇后は、

「初め神の教えを承り、今まさに金銀の国が授かろうとしている。また、全軍に対して、『自ら降伏してきた者を殺してはいけない。』と命令を下した。今、既に宝の国を手に入れ、また人も自ら降伏してきた。殺すのはよろしくかかろう。」

とおっしゃられて、縛りを解いて、飼部とされました。

そして、遂にその国に入り、重要な宝の府庫(蔵)を封印し、図籍の文書を収められました。

その後、皇后は、持っていた矛を新羅王の門に突き立てて、後の世への印(しるし)とされました。この矛は、今なお新羅王の門に立っています。

新羅王の波沙寐錦(はさむきむ)は、すぐに微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩の美しい宝物、それに、綾・羅・縑絹を持って、たくさんの船に載せて、官軍に従わせました。これが、これより後も、新羅王が常に日本国に多くの調貢をする起源なのです。

 原 文

時或曰「欲誅新羅王。」於是、皇后曰「初承神教、將授金銀之國。又號令三軍曰、勿殺自服。今既獲財國、亦人自降服。殺之不祥。」乃解其縛爲飼部。遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。卽以皇后所杖矛、樹於新羅王門、爲後葉之印、故其矛今猶樹于新羅王之門也。

爰新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以、新羅王常以八十船之調貢于日本國、其是之緣也。

 ひとことメモ

新羅王の門前に突き立てた矛は、今は無いです。そもそもあったかどうかもわかりませんが。

 

応神天皇の誕生

高麗・百済の二国の王は、新羅が図籍を差し出して、日本国に降伏したことを聞いて、秘かに日本軍の軍勢を偵察させました。とても勝ち目はないことを知り、自ら日本軍陣営の外にやって来て、頭を地につけ、

「今より後は、永く西蕃として、朝貢を絶やしません。」

と申し上げました。そこで、これらを内官家屯倉(うちつみやけ)と定めました。これが、いわゆる三韓です。その後、皇后は新羅からお帰りになりました。

十二月十四日 皇后は誉田天皇(ほむたのすめらみこと:応神天皇)を筑紫でお生みになられました。そこで、この地を宇美(うみ)といいます。

 原 文

於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍降於日本國、密令伺其軍勢、則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。」故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。

十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。故時人號其産處曰宇瀰也。

 ひとことメモ

三韓征伐

新羅征伐の結果、高麗と百済も従ってきました。よって、神功皇后の新羅征伐を三韓征伐ともいうのですね。

宇美

神功皇后が応神天皇を生んだ場所とされる「宇美」は、福岡県糟屋郡の宇美町。香椎宮から香椎線というディーゼル機関車に乗って、ひたすら内陸部へ。終点が宇美です。

駅から西へ10分ほど歩くと「宇美八幡宮」があり、ここが出産の場所だとされています。

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