日本書紀|神功皇后⑦|麛坂王と忍熊王

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麛坂王・忍熊王の密謀

神功摂政元年(201年)

新羅国を討伐して翌年の春二月 皇后は、群臣と百寮を率いて、穴門の豊浦宮にお移りになりました。そして、天皇のご遺体を収めて、海路で都に向かわれました。

その時、麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は、天皇が崩御なさったこと、皇后が西の国を征伐したこと、並びに、皇后に皇子が生まれたことを知り、密謀して、

「今、皇后に子が生まれた。群臣が皆従っている。きっと幼い皇子を天皇に立てようとするだろう。我ら、どうして兄として弟に従うことなどできようか!」

と言いました。そこで、天皇の御陵を造ると偽って播磨(はりま)まで出てきて、赤石(明石)に偽りの山陵を造ろうとしました。そのために、船を連ねて淡路嶋へ行き、その島の石を運んで山陵を作りました。そして、一人一人に武器を持たせて、皇后の到着を待った。

時同じくして、犬上君の祖の倉見別(くらみわけ)と吉師(きし)の祖の五十狭茅宿禰(いさちのすくね)は麛坂王に味方して将軍となり、東国の兵を興させました。

 原 文

爰伐新羅之明年春二月、皇后、領群卿及百寮、移于穴門豐浦宮。卽收天皇之喪、從海路以向京。時、麛坂王・忍熊王、聞天皇崩亦皇后西征幷皇子新生、而密謀之曰「今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。吾等何以兄從弟乎。」乃詳爲天皇作陵、詣播磨、興山陵於赤石、仍編船、絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。則毎人令取兵、而待皇后。於是、犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿禰、共隸于麛坂王、因以、爲將軍令興東國兵。

 ひとことメモ

忍熊皇子の乱とは

万世一系を謳った記紀。でも一方で、そうじゃなかったのでは?という説があります。その中の一つに、神武天皇から始まる大王家「葛城王朝」は、9代開化天皇の時にクーデターにあい、崇神天皇から始まる別系統「三輪王朝」にとってかわられたという説があります。(鳥越憲三郎先生)

そういう目で見てみると、

神功皇后は、9代開化天皇(葛城王朝の最後の天皇)の玄孫の息長宿禰王と、渡来系「天日槍」の子孫の葛城高顙媛との間に生まれました。となれば、神功皇后は、まさに葛城王朝の末裔といえましょうし、

対して、この御兄弟の母親である大中姫は、景行天皇の孫娘。両親とも、崇神天皇から続くチャキチャキの三輪王朝の直系といえましょう。

ですから、彼ら兄弟は、自分たちが正統な皇位継承者だと自負していたに違いないでしょうし、実際には、この兄弟が、国家祭祀と国家政治を引き継ぐべき正統なのです。

このように、この内乱は、復活の機会を得た葛城王朝が仕掛けた戦に、三輪王朝が迎え撃つという構図、すなわち並立する王家の覇権争いだったという見方も出来そうですね。

しかし結果は見えてますよね。

百戦錬磨の武内宿禰を擁する神功皇后と、三輪王朝のボンボンとの戦いですからね。

山陵を造るとは

兄弟は、ニセ天皇陵を造るという計画を立てました。その意味はというと、、、

陵を造るためには、土を盛り、そこに沢山の石を敷き詰めます。まるで砦のように。

そして、何といっても、大勢の人を集めることになります。この人々が兵士に早変わりするわけです。

今回は、それに加えて多くの船を出して淡路島から石を運んだといいますから、これも軍艦に早変わりさせることが出来ますね。

陵を造るとは、軍勢を整えるという意味なのです。

東国とは

ここでいう東国とは、この時点の宮「穴門豊浦宮」(下関)から見た東国「大和国」のことでしょうか。

麛坂皇子に味方した倉見別(くらみわけ)は犬上君の祖。犬上君は日本武尊の子稲依別王の子孫。ですから、葛城王朝vs三輪王朝の図式でいうと、三輪王朝に味方して当然ですね。本拠は彦根あたりだったと思われます。

一方、おなじく麛坂皇子に味方した五十狭茅宿禰(いさちのすくね)は、父は初代武蔵国造の兄多毛比命で、自身は下海上国造だったそうです。となれば、五十狭茅宿禰の本拠は千葉県。まさに東国にあったといえます。

さて、ここでいう東国とは、この時点の宮「穴門豊浦宮」(下関)から見た東国「大和国」のことでしょうか。それとも「吾妻国」の「東国」なのでしょうか。

 

兎我野で誓約

麛坂王と忍熊王は菟餓野(とがの)で

「もし事が成就するならば、良き獲物が得られるだろう。」

と言って祈狩り(うけいがり)を行いました。

二人の王は、それぞれ桟敷に座っていました。そこに突然、赤い猪が飛び出してきて桟敷に登り、麛坂王を喰い殺してしまいましたので、兵士たちは皆、恐れ慄きました。

忍熊王は倉見別に、

「これは何と不吉なことか。ここで敵を待つべきではない。」

と言って、軍を引き返させて住吉(すみのえ)に集合させました。

 原 文

時、麛坂王・忍熊王、共出菟餓野而祈狩之曰祈狩、此云于氣比餓利「若有成事、必獲良獸也。」二王各居假庪、赤猪忽出之登假庪、咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰「是事大怪也。於此不可待敵。」則引軍更返、屯於住吉。

 ひとことメモ

祈狩り(うけいがり)とは

「うけい」は占いの一種。「誓約」とも書きます。

「うけい」の方法は、

  • 「もし〇〇した結果が△△となれば、我が願いの通りとなる!」と宣言する。
  • 宣言してから、〇〇を行う。
  • 〇〇を行った結果を見て、吉凶を判断する。

という手順となります。

今回は狩りという行為を通して「誓約」をしたということです。

兎我野

兎我野の比定地には、いくつかの候補がありますが、そのヒントとなるのが次の2つの逸話。

日本書記仁徳天皇38年によると、

仁徳天皇と妃の八田皇女が、暑さを避けて高台に泊まられていた時のこと。寝苦しい夏の夜、天皇の心を和らげたのが、菟餓野にいる鹿の鳴く声だった。

毎晩楽しみにして鹿の鳴き声を聞いていたが、ある晩からピタッと鳴き声がしなくなった。

その翌日、猪名の縣(あがた)の佐伯部という者が、わらの包みに包んだ鹿肉を献上してきた。

それは、仁徳天皇が鳴き声を楽しみに聞いていた菟餓野の鹿だった。佐伯部には罪は無かったが、安芸の国に流されてしまった。

摂津国風土記によると、

昔、摂津の刀我野に夫婦の鹿がいた。男鹿には淡路の野島に妾の女鹿があった。

ある夜、男鹿は背に雪が降り、すすきが生える夢を見た。本妻の女鹿は、ウソの夢判断をして、射殺されて塩を塗られて食べられる前兆だから動かずにここにいましょうといって男鹿が妾のもとに行くのをとめたが、男鹿は妾の女鹿恋しさに出かけて行き、途中で船人に見つけられて射殺された。

今、そこを夢野という。

ヒントは、

  • 高台に泊まっていた・・・避暑地的な高原的な場所。
  • 猪名県の佐伯部・・・猪名県は吹田から尼崎あたりにあったと言われる県。
  • 摂津の刀我野は夢野という・・・2つの話が同じ場所を指すのであれば。
  • 明石・・・兄弟は明石で神功皇后一行を待ち受けていた。

候補地は、

  • 兵庫県神戸市兵庫区夢野町。旧地名が刀我野。
  • 兵庫県神戸市灘区。旧地名が都賀荘。
  • 大阪市北区兎我野町。

さて、どこでしょう。

私としては、山麓で明石に一番近い夢野町を推薦したいところです。

住吉(すみのえ)

大阪市住吉区の住吉の旧地名は墨江(すみのえ)といいました。今も、住吉大社の南側に、地名として残っています。

ちなみに、大阪市には住之江区という区がありますが、これは違います。

忍熊皇子は、祈狩りが大凶だったため、明石から住吉に退却したわけですが、戦をする上では住吉より明石の方がよかったんじゃないかなと思ったりします。

まあ、逃げるには住吉の方がよいでしょうが。。。

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