日本書紀|神功皇后⑧|廣田、生田、長田、そして大津渟中倉之長峽

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務古水門で占う

皇后は、忍熊王が軍を起こして待ち受けていることを聞き、武内宿禰に命じて、皇子を抱かせて南海から出て、紀伊水門に泊まらせました。

一方、皇后の船は、まっすぐに難波を目指しました。この時、皇后の船は、海の回って進むことが出来なくなりましたので、務古水門(むこのみなと)に引き返して占いをしました。

 原 文

時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武內宿禰、懷皇子横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船於海中、以不能進、更還務古水門而卜之。

 ひとことメモ

皇子は南海から紀伊へ、皇后はまっすぐ難波へ

皇子の乗せた船は、途中から横へそれて「南海」に出て、、、
皇后の船は、まっすぐ難波に向かった、、、

とあります。

一般的に南海と聞くと、高知沖を航行している絵を想像しますが、途中まで一緒だったことを考慮すると、

一行は難波を目指して瀬戸内海を航行していたが、皇子を乗せた船は途中で逸れて、四国と淡路の海峡「鳴門海峡」を通るか、高松-徳島か、淡路島内を陸路で通過して、再び海を渡って紀伊国へ向かったと読むことが出来そうです。

というのも、四国・淡路島・紀伊国を総称して南海道と呼びましたから。

皇后の船が進まなくなり務古水門へ

海で回って進まなくなった、と書かれているので、鳴門の渦潮かな?と思ったりしたのですが、それでは、まっすぐ難波に向かっていることや、務古水門(現:西宮北口あたり)まで戻ったことなどと、整合性が取れなくなりますので、

皇后の船は、明石海峡を通って難波に向かったが、難波の海が荒れて、波にもまれてコントロール不能になったということにして、渦潮説は諦めました。

神武天皇記にも、難波の海で航行に難儀した旨の記述がありますから、そういう所だったんですね。だから「浪速:なみはや」と名付けられたわけですし。

務古水門

務古水門は、兵庫県西宮市の武庫川の河口の西、今の西宮駅あたり。かつてこのあたりは、海が大きく入り込んだ入り江となっていたようです。

 

皇后、大阪湾沿岸に神々を祀る

すると、天照大神が教えて、

「わが荒魂は、皇居の近くに祭るべからず。廣田国におらしめるべし。」

とおっしゃられましたので、山背根子(やましろねこ)の娘の葉山媛(はやまひめ)にお祭りさせました。

また、稚日女尊(わかひるめのみこと)が教えて、

「われは、活田長峡国(いくたのながおのくに)におりたいぞよ。」

とおっしゃられましたので、海上五十狭茅(うながみのいさち)にお祭りさせました。

また、事代主尊(ことしろぬしのみこと)が教えて、

「われは長田国(ながたのくに)に祭れ!」

とおっしゃられましたので、葉山媛の妹の長媛(ながひめ)にお祭りさせました。

また、表筒男(うわつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)が

「わが和魂は、大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながお)に祭るがよかろう。そこで、往来する船を監視してやろう。」

とおっしゃられました。こうして、神の教えの通りに鎮座せしめられました。そると、平穏に海を渡ることができました。

 原 文

時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武內宿禰、懷皇子横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船於海中、以不能進、更還務古水門而卜之、於是天照大神誨之曰「我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國。」卽以山背根子之女葉山媛、令祭。亦稚日女尊誨之曰「吾欲居活田長峽國。」因以海上五十狹茅、令祭。亦事代主尊誨之曰「祠吾于御心長田國。」則以葉山媛之弟長媛、令祭。亦表筒男・中筒男・底筒男三神誨之曰「吾和魂、宜居大津渟中倉之長峽。便因看往來船。」於是、隨神教以鎭坐焉。則平得度海。

 ひとことメモ

神祭り

務古水門で神託を得ました。4柱の神々が祀られたい場所を指定します。

この4柱の神々が、かつて「新羅国を攻めるべし!」との神託を下ろした神々とイコールだと考えていいと、私は思います。

天照大神の荒御魂

まずは、天照大神が「荒御魂を廣田国に祭れ」と言いました。これが現在の廣田神社です。

廣田神社は、平安時代の延喜式では名神大社に列し、さらには国家の大事に関わる二十二社にも選定され、明治維新後は官幣大社に列するという、押しも押されぬ大社となりました。すごく暖かい気持ちになれる、いい神社ですよ。

祭神は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=天照大神荒御魂としています。

ここで、天照大神が「皇居の近くはダメよ」と言ってます。かつて、崇神天皇が「宮中で祀るには畏れ多い」という理由で天照大神を宮中から出したことを思い出させます。

天皇の近くに祭ってはいけない理由については、様々な推理が展開されていますが、ここではやめておきましょう。

稚日女尊

次に、稚日女尊が「生田に祭って!」と言いました。今の生田神社です。生田神社は、神戸市の三宮駅の北側にあります。

こちらも延喜式神名帳に記載ある式内社で、名神大社に列する霊験あらたかな古社です。

私は、この稚日女尊が、新羅征伐前に名を明らかにした4柱の神の内の「尾田吾田節之淡郡所居神」だと思ってます。

事代主神

続いて、事代主神が「長田に祭るべし!」と言いました。今の長田神社です。神戸市長田区永田町にあります。

祭神は、「天事代 虚事代 玉籤入彦 厳之事代主神」(あめにことしろ そらにことしろ たまくしいりひこ いつのことしろぬしのかみ)です。

事代主神=恵比須神という民間信仰により、商売繁盛の神様として民衆の信仰を集める神様ですが、一方で、国家鎮護の神、皇室守護の神、言霊鎮魂の神として、宮中奉斎八神の一柱として、今も皇居内神殿に祀られている大神様でもあるのです。

表筒男・中筒男・底筒男

最後に、表筒男・中筒男・底筒男が「我が和御魂をば、大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながお)に祭るがよかろう。」と言いました。

一般的には、大阪市住吉区にある住吉大社を指します。こちらの神社も、名神大社・二十二社(中七社)に列し、摂津国一宮とされた極めて霊験あらたかな神社です。明治維新後の旧社格も、廣田神社と同じく官幣大社です。

「本住吉神社」説

ところが、本住吉神社」(もとすみよし)という神社が存在するのです。

本住吉神社は「大津渟中倉之長峡は大阪の住吉大社ではない!ここだ!」と言ってます。本居宣長も同様の立ち位置と聞きます。

その理由は、、、

 そもそも「大津渟中倉之長峡」の意味はというと、

  • 大津=大きな港、あるいは、たくさんの港
  • 渟中倉=意味不明
  • 長峡=狭い細長い土地

 大きな港か多くの港がある細長い土地ということで、比較すると、、、

本住吉神社のある神戸市は、六甲山地から流れ出る川が多くあります。山と海が近いので、海岸線の水深は深い。まさに良い港がたくさんあった場所です。
また、山と川が近いということは、平地が極めて狭く長細いとも言えます。

一方、住吉大社の場所はというと、難波津という大きな港がありますが、かなり遠いです。ちなみに現在の住吉大社は大和川の河口から近いですが、江戸時代に付け替えられるまでは大和川は大阪城の方へ流れていましたので、この時代に大和川河口はないです。
また、「長峡」を細長い上町台地に充てていますが、細長い部分はもっと北の方で、天王寺から南は、逆に当時の大阪では最も広い平野部だったはず。

どうも、住吉大社は「大津渟中倉之長峡」にそぐわないのです。

 神が言った「ここから往来する船を監視しよう」という言葉でで比較すると、、、

本住吉神社の奥宮がある場所は、六甲山の麓。標高300mなので明石海峡から紀伊水道まで広く見渡すことが出来ます

一方、住吉大社はほぼ海岸と同じ高さ。波打ち際に立っている感じだったはず。地球は球面ですから遠くまで見通すことは出来ませんよね。

 さらにもう一つ、他の神が祀られた場所との関連性から見ると、、、

廣田神社・生田神社・長田神社が横並びに並ぶ中、本住吉神社は廣田神社と生田神社の間に入り、本住吉神社が入ったことで、この4社が等間隔に並ぶのです。

さらに、荒魂が祀られた穴門山田邑(下関市)と、本住吉神社とは、瀬戸内海の入口と出口という位置関係になります。

どうでしょう。とっても綺麗にまとまったと思いません?

といいますか、そもそもですが、押熊皇子は墨江(住吉)に陣を構えていたはずなので、そこに神を祀るためにノコノコ行くというのはナンセンスかと。

私は、神功皇后が表筒男・中筒男・底筒男の和魂をお祭りしたのは神戸市だと思います。然るべき時になって、摂津の墨江に分霊あるいは遷座したのではないかと思ってます。

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