あづないの罪
忍熊王は、さらに軍を退却させ、菟道(うぢ)に陣を敷きました。
皇后は、南に向かって紀伊国に至り、日高(ひたか)で太子(ひつぎのみこ)と会われました。そして群臣と協議し、いよいよ忍熊王を攻めようとなさり、小竹宮(しののみや)に遷られました。
この時、昼が夜のように暗くなり、何日も続きました。時の人は
「ずっと、夜が続く。」
と言いました。皇后は紀直(きのあはひ)の祖の豐耳(とよみみ)に
「この怪しげなことは、なにが原因か。」
と尋ねられました。その時、ひとりの老父が
「聞くところに依れば、この怪しげなことを阿豆那比(あづなひ)の罪というそうです。」
とお答えした。皇后が、
「どういう事か。」
とお尋ねになると、
「二社の祝(はふり)を、同じ場所に埋葬したからではないでしょうか。」
とお答えした。そこで、村里で調べてみると、ある一人の人が、
「小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)とは、良き友でだったんです。小竹祝が病死した時に、天野祝は泣き悲しみ、『私は生前親友でした。どうして死後も同じ墓に入らないでおられようか。』と言って、遺体の傍で自害しました。だから、同じ墓に埋葬した、ということがありました。」
とのことでした。墓を調べると、事実でした。ゆえに、改めて棺を別々の場所に埋葬すると、日が照り輝き、昼と夜とが分かれました。
原 文
忍熊王、復引軍退之、到菟道而軍之。皇后、南詣紀伊國、會太子於日高。以議及群臣、遂欲攻忍熊王、更遷小竹宮。小竹、此云芝努。適是時也、晝暗如夜、已經多日、時人曰、「常夜行之也」。皇后問紀直祖豐耳曰「是怪何由矣。」時有一老父曰「傳聞、如是怪謂阿豆那比之罪也。」問「何謂也。」對曰「二社祝者、共合葬歟。」因以、令推問巷里、有一人曰「小竹祝與天野祝共爲善友、小竹祝逢病而死之、天野祝血泣曰『吾也生爲交友、何死之無同穴乎。』則伏屍側而自死、仍合葬焉。蓋是之乎。」乃開墓視之、實也。故更改棺櫬、各異處以埋之。則日暉爃、日夜有別。 |
ひとことメモ
忍熊皇子の戦意
忍熊皇子は、明石→住吉(墨江)→宇治と戦わないうちから退却して行きました。
本当に戦う気があったのでしょうか。
一方、皇后は難波に着くと今度は一路南へと進み、紀伊国の日高まで息子を迎えに行きます。日高というと今の御坊です。
確か、息子と武内宿禰は紀ノ川河口に滞在していたはずなんですが、、、
これらの動きが、どうも不自然なんです。いろんな伝承を繋ぎ合わせて作ったように思えます。
日高
日高は和歌山県日高郡。日高郡の中心は今の御坊市ですが、どうやらこの日高は今の由良町のようです。
由良町衣奈にある衣奈八幡宮に、「神功皇后が由良町大引に上陸した」との伝承が残っています。
ちなみに大引には白崎という岬があります。石灰岩の岬で、海岸の岩々が真っ白。真っ青な海に真っ白な岩々。まるでエーゲ海のようですよ。
あずないの罪
また、ややこしい罪が登場しました。
同性愛の罪、男色の罪という見方が多いように見受けられますが、それは間違いだと言いたいです。
はっきりと、「二社祝者、共合葬歟」と書かれています。
異なる神社の神職(祝:はふり)を、同じ墓に埋葬した罪です。
神職たるものは、死んでも生前同様に神に仕えなければならないという考え方があり、同じ神社の神職は同じ場所に埋葬されていたから、神の逆鱗に触れたのです。
神社の「祖霊社」って、そういう考え方の表れだったのかもしれないですね。
小竹宮
小竹宮は、皇子を迎えに行ったあと、軍備を整えるために滞在した仮宮です。
その場所はというと、、、
小竹祝と無関係であるはずはないでしょうから、小竹祝が務めていた神社を特定できればいいのですが。
小竹祝(しののはふり)
彼が務めていた神社の候補は次の通り。
- 和歌山県御坊の小竹八幡宮旧鎮座地(御坊市立体育館敷地内)
- 和歌山県紀の川市志野の志野神社
- 奈良県五條市西吉野町の波宝(はほう)神社
- 大阪府和泉市尾井の舊府(ふるふ)神社
天野祝(あまののはふり)
こちらが務めた神社は、
- 和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)
だそうです。
天野祝と小竹祝の両名が、足しげく通い合った仲だったとすれば、小竹祝は天野祝のいる丹生都比売神社から近い所にいた可能性が高いと考えるのが自然です。
ということで、私の中では、紀の川市の志野神社が有力候補となってます。
というわけで、小竹宮は紀の川市あたりにあったと思われます。
しかしです。
今まさに「葛城王朝の復権vs崇神王朝の抵抗」という戦が繰り広げられようとしている、この緊迫した状況の中で、何故にこの「あずないの罪」というネットリした話が挿入されるのでしょう。
何か深い深い理由があるように思えますが、案外そうでもないかも。。。
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